〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/05/18 (日) 夕 顔 (十五)

風すこしうち吹きたるに、人はすくなくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男 (ヲノコ) 、また上童 (ウエワラベ) 一人、例の随身ばかりぞありける。
召せば、御答へして起きたれば、
「紙燭 (シソク) さして参れ。随身も弦打 (ツルウチ) して、絶えずこわづくれ、と仰せよ。人離たる所に、心とけて寝 (イ) ぬるものか。惟光の朝臣の来たりつらむは」
と、問はせたまへば、
「さぶらひつれど、仰 (オオ) せ言 (ゴト) もなし、暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬ」 と、聞こゆ。
このかう申すものは、滝口なりければ、弓弦 (ユヅル) いとつきづきしくうち鳴らして、 「火あやふし」 と言ふ言ふ、預りが曹司のかたに去 (イ) ぬなり。内裏をおぼしやりて、名対面 (ナダイメン) は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏 (トノヰモウシ) 今こそ、と、おしはかりたまふは、まだいたうふけぬにこそは。
返り入りて探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
「こはなぞ。あなもの狂ほしの物懼 (モノオヂ) や。荒れたる所は、狐などやうのものの、人おびやかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあてば、さやうのものにはおどされじ」
とて、引き起こしたまふ。
「いとうたて、みだりごこちのあしうはべれば、うつぶし臥してはべるや。御前にこそわりなくおぼさるらめ」
と言へば、
「そよ。などかうは」 とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、われにもあらぬさまなれば、いといたく若びたる人にて、ものにけどられぬるなめり、と、せむかたなきここちしたまふ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

風が少し吹いていますが、宿直の者も少なくて人の気配はなく、詰めている者は残らず寝入っております。留守番の男の息子で、日頃源氏の君が身近に使っていらっしゃる若者と、殿上童が一人に、例の随身だけしかおりません。お呼びになりますと、留守番の息子が返事をして起きてきました。
「紙燭をつけて来い。随身も弓の弦を鳴らして、絶えず声をあげるように命じてくれ。こんな人気のない所で、安心して眠るとは何事だ。惟光の朝臣もさっき来ていたようだが、どこに居るのか」
とお訊きになりますと、
「先程まで控えておりましたけれど、お呼びもないので、明け方、お迎えに伺うと言って、退出なさいました」
と申し上げます。こうお答えした留守番の息子は、宮中の滝口の武士でしたから、弓弦をいかにも手馴れた様子でうち鳴らして、 「火の用心、火の用心」 と、くりかえしながら、留守番の家族の住居の方へ去っていきました。
その声に源氏の君は、宮中を思い出されて、もう今頃は、宿直の殿上人が姓名を奏上する名対面 (ナダイメン) はすんだだろう。滝口の宿直の武士の名対面が丁度今頃はじまった頃だろうかなどと、推量なさいます。それならまだそう夜も更けきってはいないのでしょう。
源氏の君がお部屋に帰ってこられ、手さぐりでたしかめてごらんになると、夕顔の女はもとのままの姿で寝ている横に、右近もうつ伏しています。
「これはまた、どうしたのだ。何という恐がりようか、者脅えにも程がある。こういう荒れた所には、狐の類などが住んでいて、人間を脅かそうとして悪いいたずらをして怖がらせるものだ。しかしわたしがついている以上は、そんなものには脅かされはしない」
と、右近をひき起こされました。
「ああ、気味が悪い。わたしはたまらなく怖くて気分が悪いので、うつ伏しているのです。それより姫君こそどんなに怖がっていらっしゃいましょう」
と申しますので、
「おお、そうだ、どうして、そんなに怖がるのか」
と、女君をかきさぐってごらんになると、息もしていません。ゆすってみても、ただ体がなよなよとして、正気を失っているようなのです。
「まるで子供のように頼りない人なので、物の怪にでもとり憑かれたのだろう」
と、どうしていいのか途方にくれておしまいになりました。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ