〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/05/17 (土) 夕 顔 (十三)

惟光尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。かくまでたどりありきたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそは、と、おしはかるにも、わがいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、ゆずりきこえて、心ひろさよ、など、めざしう思ひをる。
たとしへなく静かなる夕 (ユウベ) の空をながめたまひて、奥のかたは暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げ添ひ臥したまへり。
夕ばえを見かはして、女も、かかるありさまを思ひのほかにあやしきここちはしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆくけしき、いとらうたし。
つと御かたはらに添ひ暮らして、ものをいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子疾 (ト) くおろしたまひて大殿油参らせて、
「なごりなくなりたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」
と、うらみたまふ。
内裏 (ウチ) にいかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむと、おぼしやりて、かつはあやしの心や、六条わたりにも、いかに思ひ乱れたまふらむ、うらみられむに、苦しうことわるなりと、いとほしき節は、まづ思ひきこえたまふ。
何心もなきさしむかひを、あはれとおぼすままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや、と思ひくらべられたまひける。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

やがて惟光が探しあててきて、果物などさしあげます。右近にあえばあなたの手引きなのかと恨ごとを言われるにちがいないので、さすがに気が引けて、惟光はお側近くへはお伺いしません。
この女のために、こんなにまでして人目を忍びうろうろ歩き迷っていらっしゃる源氏の君のご執心ぶりが惟光にはおもしろくて、きっと、それだけの値打ちのある女なのだろうと想像するにつけても、自分が早く言い寄ることも出来ないのに、君におゆずりしてしまうとは、我ながら心が広すぎたなどと、悔しがっているのは、なんともあきれたことでした。
たとえようもなく静かな夕暮れの空を眺めていらっしゃって、奥のほうは暗くて気味が悪いと、女が怖がっていますので、縁側の廉を巻き上げて、女に添い寝していらっしゃいます。
夕映えに浮びあがったお互いの顔を見かわして、女も、こんなことになったのを、つくづく思いのはかの成り行きだと不思議な思いにとらわれています。今はすべての不安や愁いも忘れてしまって、少しずつ打ち解けてくる様子が、源氏の君には何ともいえず可愛らしいのでした。
終日ひしと源氏の君のお側に寄り添ったままで過ごしながら、夕顔の女は何かにほどく怯えて怖がっている様子がいかにも若々しく可憐なのです。
格子を早々とおろして、灯火 (アカリ) の用意をおさせになりました。
「こんなにすっかり隔てのない打ちとけた仲になったのに、まだあなたは相変わらず隠しだてなさるのがつらい」
と源氏の君は恨み言をおっしゃるのでした。
宮中では、今ごろ帝がどんなにか自分をお探しになっていらしゃることか、帝のお使いは、いったいどこを探し歩いていることやら、と思いやられます。
「それにしてもこれほどこの女に夢中になるとは我ながら何んという不思議な心だろう。また六条の御息所も、まったくお訪ねしないのでどんなにかお恨みになり苦しまれていらっしゃることだろうか、あのお方に恨まれるのはつらいけれど、あちらにしては無理もないことだ」
など、すまないと思う点では、まず第一にあのお方をお思い出しになられるのでした。
おっとりと無邪気に、差し向いに坐っている目の前の女を、たまらなく可愛くお思いになるにつけ、六条の御息所が、あまりにも高い自尊心から、こちらが息苦しいような窮屈な気分にさせられる点を、少し取り捨ててくださったならなど、源氏の君は心のうちに、ついふたりを比べておしまいになられるのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ