〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/16 (火) 山本 権兵衛

日本政府が対ロシア戦争を本気で意識したのは、開戦の四年ほど前であるという。日英同盟締結によって、ようやく肝がすわったということになる。
当時、世界一の陸軍を有する大国ロシアに対して、日本の陸軍は到底比肩出来るものではないのだが、こと海軍に関してならば、見方によっては優っていたともいえる。それは量的な尺度ではなく質の観点からのものだ。
明治という新しい国家の誕生から四十年にも満たない間に、日本の海軍は列強諸国と肩を並べるまでに至っていたのである。
この海軍をつくり上げたのが一人の不良番町だった。その男こそ山本権兵衛である。
権兵衛は鹿児島の加治屋町出身で、幼い頃から 「ボッケモン」 と渾名されていた。 「ボッケモン」 とは薩摩弁で 「何をしでかすか分らない肝の太い者」 という意味で、成人してもその鼻っ柱と腕っ節は相当に強かったようである。
寛永五年生まれの権兵衛の初陣は薩英戦である。この時、わずか十二歳。
戊辰戦争も、歳を二つ誤魔化して十六歳で従軍している。若干若すぎる感じがしないでもないが、それのしても凄まじい戦歴ではある。
後に海軍大臣となり、日本海軍の近代化を推し進め、日露戦争に必要不可欠とされた 「六六艦隊」 を編成させる。そして、日本を勝利に導く 「日本海軍の父」 である。

そんな 「希代の人物」 のはずの権兵衛の若い頃の話である。
彼は海軍兵学寮時代、薩摩グループの首領として、毎日を喧嘩三昧に明け暮れていたという。その隣には義兄弟というべき日高壮之丞 (後の常備艦隊司令長官で海軍大将) や上村彦之丞、後輩の伊集院五郎など、錚々たるメンバー (?) を従え、蛮風漂う校内を闊歩していた。
この頃の海軍兵学寮をなぜ 「蛮風漂う」 と表現するかというと、その生徒のほとんどが戊辰戦争を戦ってきた兵士達であり、戦場の興奮はいまだ冷めやらず、荒らしく己の自己顕示欲を発散させていた。いわゆる 「暴力教室」 である。また、それは生徒間同士にとどまらず、教官にまで及ぶことが多かったという。
歴戦の益荒男たちは戦場を知らない教官に対して従順になれない苛立ちがあったのだろう。
彼らが必要とされた動乱の時代に終止符が打たれ、明治という新しい国家が誕生すると途端に、彼らは路頭に迷うってしまったのだ。
その若さでは 「維新の功労者」 として新政府に参画できる序列の外であり、士族階級も消滅してしまった新時代に、将来への不安を増幅させていったのだろう。
権兵衛自身もそのことに相当悩んだようだ。本気で相撲取りになろうと決心するのもこのころである。
戦友の日高壮之丞と共に相撲部屋への入門を試みている。ここで断られていなかったら日露戦争の勝敗はどうなったか判らない。
十八歳の権兵衛は窮してしまい、大先輩の西郷隆盛を訪ねる。この時、西郷はこれからの日本にとって海軍が以下に重要かを諭すと、権兵衛を勝海舟に紹介するのであった。
勝は権兵衛を気に入り、赤坂の自宅に居候させて海軍操練所 (海軍兵学寮の前身) へ入学させる。 こうして権兵衛は築地の海軍兵学寮第二期の卒業生となる。
日本の本格的海軍教育は明治二年に開設された海軍操練所が原点だが、その翌年に海軍兵学寮 (海軍兵学校の前身) が開設され、第一期卒業生は僅かに二名。ようやく権兵衛の頃、十七名の卒業生が世に送り出されることになる。

権兵衛はその腕力には相当の自信があったようだ。それは年長の日高や上村も十分認めている。それ以上に権兵衛には天性のリーダーシップが備わっていた。
この 「全身硬派」 といえる男が 「恋」 をしてしまう。
その出会いは品川の遊廓だった。そこで権兵衛は貧困から売れれてきた一人の少女に一目惚れしてしまう。明治という新しい時代は急激な社会変革によって、没落する士族やこのような多くの悲劇が生まれている。
とにかう権兵衛は故意に落ちてしまった。
何とか彼女を救いたい。しかし、身請けする金などない。と、なると強制的な 「足抜け」 しかないと考えてしまう権兵衛。いつでも一直線が 「ボッケモン」 の心意気である。七人の仲間を集めると即時に作戦を捻り出し、カッターで品川の遊廓に漕ぎ出すのであった。なんと海軍士官候補生の集団による計画的 「足抜け (娼家にとっては誘拐) を敢行するのである。
この少女が山本権兵衛の妻・トキ子夫人である。まるで 『人生劇場』 の飛車角のようだ。しかし飛車角のモデル石黒彦市は不運にもその女性 「おきみ」 を幸せにすることは出来なかったが、権兵衛は終生彼女を愛した。
婚礼の夜、同郷の森有礼に倣った権兵衛は、この新妻にいくつかの約束を書面にして誓うのである。
「お互い礼儀を守る。生涯仲良くする。妻以外の女性を愛したりはしない」
なんという 「ボッケモン」 であろう。権兵衛は最後までこの約束を守った。

破天荒な 「ボッケモン」 山本権兵衛であるが、海軍軍人として歩み出した途端に、西南戦争という大事件が勃発する。その時、ドイツ軍艦に乗船して遥か洋上にあった権兵衛は、恩師・西郷隆盛の悲報を知るのである。これからの日本には海軍というものがいかに重要かと語ってくれた西郷のあの日の姿が瞼に焼きついていた。権兵衛は泣く。泣き続けた。そして、西郷が託した日本の将来を 「海軍」 とううもので守っていこうと固く誓うのであった。
ここから、権兵衛は大きく成長することになる。そして、運命は海軍軍人・山本権兵衛を意外な方向へと向かわせて行くのだだった。
「高雄」 「高千穂」 の艦長を歴任後、権兵衛は海軍大臣官房主事として軍政家の道を歩み始める。それは亡き西郷隆盛の実弟・西郷従道との出会いでもあった。
「海軍の父」 という権兵衛の偉業の第一は西郷従道海軍大臣の下で敢行した海軍大リストラである。
これは、十一年前、権兵衛が中尉時代に 「海軍上級者の再教育」 を提案した際、同じ薩摩藩の先輩達から握り潰された経験があった。日進月歩の海軍技術にそぐわない明治維新功労者の存在は海軍の組織構造に大きな無理を生じさせていた。
階級は大佐だが今でいう海軍次官という立場にあった権兵衛には、どうしても断行せねばならない最重要案件であった。
ここで海軍大臣・西郷従道との絶妙なコンビが結成される。
西郷従道は 「己が認めた有能な部下に全てを一任させる」 という薩摩型リーダーの典型タイプであり、その部下の行動がやりやすくなる道筋と根回しに専念し、その責任は全て自分が負う、という人物だった。
従道は権兵衛を認めた。全面的な後ろ盾になってくれたのだ。この西郷従道も薩摩閥など百害あって一利なきものと考えていたのだろう。
周囲は 「権兵衛大臣」 とか 「大佐大臣」 と権兵衛を批判した。権兵衛のロボットといって従道にもその矛先は向けられたが、従道の権兵衛に対しての信頼は揺るがない。そして権兵衛はその豪腕をもって抵抗勢力をねじ伏せるのだった。
ただ一点、そのリストラ名簿に 「東郷平八郎大佐」 という名が従道を躊躇させる。
「この男はちょと・・・・・少し様子をみましょう」 内心権兵衛も従道のこの言葉を待っていた。
海軍上級軍人のリストラを断行するには薩摩出身者からも率先してその該当者を出さなければならない。それほど当時の東郷の存在は地味で目立たないものだったのだが、同じ加治屋町出身で彼の存在を高く評価していた権兵衛は彼をリストラから外したのだ。
それは後に、海軍大臣になった権兵衛が、日露開戦直前、周囲を驚かせる連合艦隊司令長官東郷平八郎誕生への大いなる伏線となっていく。

明治政府は勿論、軍隊においても藩閥の弊害は大きかった。所謂、薩摩と長州の対立である。
旧薩摩藩人脈は威信の動乱でその多くの人材を失った長州と比べて大きな勢力を有していた。特に 「軍隊」 においては絶大といってよかった。ところが、西南戦争によって薩摩は二分され力は半減してしまう。その影響力も陸軍では発揮しづらくなっていた。
その期に乗じて長州の山縣有朋は 「長州の陸軍」 を構築させてしまう。そこで薩摩は海軍に活路を求めた。権兵衛が苦労した 「薩の海軍」 の弊害はこの点にもあったのだろう。しかし、それとは別に当時の軍の概念では陸軍こそが軍の核であり、海軍はその一部門であるという認識が強く、事実そういう構成になっていた。
これは日本という島国が海外遠征というものをその歴史の中で、ほとんど経験したことがないことにもよる。しかし、すでに内戦の歴史は終わり、明治という外圧に脅かされる時代は始まっていたのである。
アジア諸国が列強の植民地の草刈場となっていたこの時代に、日本の海軍の役割には大きいものがあった。
ところが、陸軍は海軍というものを大陸への輸送手段としか考えていない。日露戦争において、陸軍指揮下での作戦行動では無理があり、支障を来すという切迫した事情があった。そうでなくての、海軍自体の運用を海軍を理解していない陸軍首脳部に任せることは出来ない、というのが権兵衛の考えだった。
権兵衛は海軍が独自の作戦立案で動かなければ、近代海戦の場で、海軍の本来の力が発揮できないことを危機感として持っていた。
これが権兵衛のもう一つの悲願である海軍の地位を陸軍と同等にするというものだった。
権兵衛は日清戦争の時からその主張を貫いているのだが、どうしても結果に結びつけることが出来ない。時の陸軍の実力者は薩摩の川上操六である。奇妙なことに陸軍と海軍とは 「薩と長」 の藩閥が存在するのとは別次元で陸海の対立構造が生まれていたのである。
結局は、日露戦争直前という時期に児玉源太郎が降格人事を受けて参謀次長として登場すると、いとも容易く解決させてしまうのだが。
しかし、海軍を一手に守る 「番町」 権兵衛はこれまでの陸軍との対立関係の行き掛かりから、児玉以前の陸軍という組織に構える姿勢を崩すことが出来なかった。それが故に、この問題は後を引き旅順攻略にも影響していくのである。また、陸海双方の不仲は伝統的なものとなり、太平洋戦争終結まで続くことにもなる。
西郷従道と権兵衛のコンビによって、また、権兵衛自身が海軍大臣となって 「日本の海軍」 は育て上げられていった。日露戦争における悲願の六六艦隊 (戦艦六隻、巡洋艦六隻) がそれである。
日本の海軍は一人の 「ボッケモン」 がつくり上げたのである。
「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ