〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/28 (水) ブロードウェイの行進 D 

どうも話がわきへ外れ過ぎます。
私は封建制におけるボンクラの話をしなければならない。
勝海舟がアメリカから江戸に帰った時、報告の為にお城へ登りました。すでに井伊大老はこの世になく、幕府の大臣たちである老中らが、ずらりと座っている。老中は原則として譜代大名がこの職につきます。ほとんどが、申維翰のいう 「怪鬼の如き輩」 で、海舟は全身が頭脳のような男です。またその出身から見ても察せられるとおり、門閥に大あぐらをかいて平然と無能のまま重職にいる高官たちが大嫌いでした。ボンクラが国を滅ぼすと思っていました。ついには幕府に対して愛と憎悪を同時に持っていました。
老中の一人が、勝に対して質問しました。私はてもとに原典を持っていませんから、記憶だけで申しあげます。
「勝。わが日の本と彼国とは、いかなるあたりが違う」
というようなことだったと思います。勝海舟は、自分の度胸と頭脳にあぐらをかいているような男ですから、
「左様、わが国と違い、かの国は、思い職にある人は、そのぶんだけ賢うございます」
と、大面当を言って、満座を鼻白ませたといいます。
この一言は封建制度の致命的欠陥をつき、しかも勝自身の巨大な私憤を述べています。勝は、アメリカへ行く咸臨丸においても、艦長室にいながら (軍艦操練所教授方頭取) 正規の指揮官はつまり提督ともいうべき軍艦奉行は、門閥出身の木村摂津守喜毅 (1830〜1901) で、勝よりも実務能力がひくい上に、勝より七つも年下なのです。
この木村という人は明治以後、 「芥舟」 という号をつけて隠遁して世に出なかったという、実にきれいな人なのですが、明治後の速記禄に、勝についてこう語っています。
「(身分を低く留められていたために) 終始不平で、大変なカンシャクですから、誰も彼も困ってしまいました」
咸臨丸の航海中も船酔いだといって艦長室から出て来ず、木村提督のほうから相談の使いをやると勝は 「どうでもしろ」 という調子で、
「はなはだしいのは、太平洋の真中で、己はこれから帰るから、バッテラー (ボート) を卸してくれ」 という始末だったといいます。船酔いだけでなく 「つまり不平だったのです」 と、おだやかで人を中傷することがなかった木村芥舟が語っています。
私は勝海舟が、巨大な私憤から封建制への批判者になり、このままでは日本はつぶれるという危機感、そういう公的感情 (もしくは理論) へ私憤を昇華させた人だと思っています。
海舟は偉大です。なにしろ、江戸末期に、
「日本国」
という、誰も持ったことのない、幕藩より一つレベルの高い国家思想 (当時としては夢のように抽象的な) 概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在でした。
しかもその思想と、右の感情と、不世出の戦略的才能をもって、明治維新の最初の段階において、幕府代表 (勝は急速に立身してすでにそこまでになっていました) として、幕府自ら自己否定させ、あたらしい “日本国” に、一発の銃声もとどろかせることなく、座を譲ってしまった人なのです。
こんな鮮やかな政治的芸当をやってのけた人物が、日本史上いたでしょうか。そのバネが、右のことばです。 “アメリカでは、政府の偉い人はそれ相当にかしこい。日本はちがう” つまり彼自身の不平、そしてそのどろどろした感情を蒸留して結晶体を取り出したところの文明批評というべきでしょう。

さて、ブロードウェイの三使節の身の上に話を戻さねばなりません。彼らは米軍艦 「ポーハタン」 のグループですから、咸臨丸グループの木村や勝がブロードウェイにいないのはいうまでもありません。
三人の使節の内、二人までは封建的ボンクラでした。とくに幕府が意識してその程度の者を選んだのでしょう。正使新見も副使村垣も、幕臣としての門地がよく、勝のようにガラッパチじゃありません。適当に教養があって、そつのない人物です。副使村垣には多少の文才がありますが、その見聞禄を見ると、まったく創見というものがなく、ただアメリカは礼儀のない国だとばかり書いている。
礼儀というのは日本式もしくは中国式の礼儀ということです。ではアメリカの本質は何かということについては、その知能は少しも動いていません。そういう使者に、とくに代表新見には、幕府は十万石の資格を与え、錦を着せたのです。歌舞伎ですな。
ふつう遠くへやる国家の外交使節には、全権を与えます。が、彼らは何の権限も与えられていない。
ワシントンで大統領に会って批准する、そういう儀式を (つまり演技を) するだけが彼らの仕事で、新見・村垣とも、その程度の人物でした。ふざけた話でした。げんに後でアメリカが気づき、一、二の新聞が、このことについて怒っています。
が、もともと日米条約に乗り気でなかった幕府にすれば、それでよいとしたのです。またアメリカ側からしても、別に外交交渉をするわけではありませんから、手腕家の登場を必要としておりません。
また、アメリカの大衆にしてみても、それで十分でした。
「日本人」
というものを見たかったのです。
アメリカ人は、すでに中国を見ていましたが、日本人を知らなかった。
新見・村垣らが、批准の為にワシントンにいたのは、ニューヨークの前でしたが、彼らを見るためにワシントンの街と周辺は、家々が空家になってしまうほどで、新聞、雑誌の記者はその印象記の取材の為に駆けまわっていました。
誰もが、この日本使節に感心した。頭の内容でなく、その挙措動作、品のよさと、毅然とした姿に、です。
首都やニューヨークに出現した、この未知の民族について、異文化とはいえ、大変上質なものを感じたのです。
当時、上品で凛々しい人間をつくる場所、あるいは階層は、京都の御所ではなく、江戸の山ノ手の門地の高い旗本屋敷でありました。気品のある言葉、態度、お行儀、それに教養。すべてを総和すれば、とてものこと、諸藩の侍階級は、こうはいきません。ついでながら、日本人の代表として、明治四年に、いわば革命に成功したグループ (岩倉使節) がアメリカにやって来ますが、彼らはよほど品が下がるものだったでしょう。
人間は、他の人間にとって、しばしば存在そのものが、巨大な情報の発言体である場合が多いのですが、新見・村垣、そして小栗という三人の遣米使節とその随員こそ、そうでした。江戸二百七十年の文化の上澄みが、ブロードウェイを行進したと考えていいでしょう。
ウォルト・ホイットマンが、六月十六日、この行進を見、 「ブロードウェイの行列」 という詩を、感動を込めて書いたのは無理はありません。
ホイットマンは、四輪馬車に寄りかかった彼らの印象を “超然” という言葉で表しました。私ども後世の日本人から見ても、それは再び見ることのない上質な挙借動作というべきで、ホイットマンは、さらに “考え深げな黙想と真摯な魂と輝く目” といった言葉で表現しています。

さて、時間がきましたので、今回は尻切れとんぼに終わります。
三人の使節のうち小栗豊後守忠順については、次回に話します。幕府は正使・副使をお飾りとし、切り札のような俊秀として小栗を目付けとして加えたのです。
大変な人選だと思います。この小栗が (幕府瓦解とともに幕府に殉ずるようにして死にますが) 明治国家の父の一人として位置付けざるを得ないということを、つぎにふれてゆきたいと思います。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ