〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/27 (火) ブロードウェイの行進 C 

まだ、話がブロードウェイを行進する遣米使節にまでは至りません。ここでちょっと、バカと利口の話をします。
申維翰も、江戸日本の大名や高官たちのバカ面には閉口しています。たとえば大坂で、大坂を管理する幕府の高官を引見しております。
大坂城代という将軍の代理者は岡部という大名ですが、これは 「老衰してしまって人間じゃなくなっている」 と書き、その下にいる二人の町奉行は、どちらも進退がいじけていて、ろくに言葉も (日本語ですが) 使いこなせない。
日本の官爵は、世襲をもってするゆえに、人を択ばず、怪鬼の如き輩がいずくんぞその任を能くなしえようか。笑うべきことだ (118頁)
まことに、朝鮮第一級の科挙的な秀才の目から見れば、日本のエライ人というのは、こんなものでしょう。 「怪鬼の如き輩」 とはうまく言ったもんです。
その任重くしてその器は愚である、という場合、当の人物を眺めていると、怪鬼を感じさせます。鬼とは、死霊のことです。ただし、かれらが死霊の如きボンクラでも、家来や補佐役に利口なのがいて、かれらが怪鬼になんとか大過なく任務を尽くさせるのが封建制でした。
側近もしくは下僚による政治は、封建日本の一特徴でした。ただし、こういう補佐政治は、泰平の世ではそれでいいのですが、幕末のような非常の世の中になりますと、通用しなくなります。
補佐政治は、因循停滞こそ善だという泰平の世のものなのです。
ついでながら、万延元年の年のはじめに遣米使節を送り出したときの幕閣は、老中の合議制というよりも、久しぶりで大老という非常職を選び出して、彼の独裁下にありました。井伊直弼です。
彼はむろん、 “怪鬼の如き輩” ではありません。しかし、遣米使節がニューヨークのブロードウェイにあるとき、すでに井伊直弼は水戸浪士によるテロリズムに遭って (桜田門外の変) この世にありませんでした。ただし、当時、通信緩慢なため、彼ら一行はこのことを知りませんでした。
さて、もう少し封建制によるバカ・ボンクラ高官について、話したいと思います。ボンクラなんて、 怪鬼という漢語よりも実感があって、人間のにおいがありますな。ボーとして、黄昏のように昏いことでような、たぶん。
勝海舟のことです。
海舟はむろん、ボンクラじゃなく、封建体制下では常ならざる人です。将軍の直参の事を旗本・御家人といいますね。旗本は将校、御家人は下士官もしくは兵卒と思ってください。
御家人は将軍に御目見得する資格がありません。海舟はそういう下級幕臣、つまり、ひくい御家人の家に生まれて、この遣米使節の頃、大いに頭を上げていたものの、幕府としては身分がなお低いため艦長にはできず、頭取という不思議な職名でいました。
彼の家系は、名家の匂いなど、一切ない。海舟の曽祖父は全盲の人で、越後の百姓身分であり、江戸に流れて来て、あんまをする一方、高利貸しをして巨万の金を貯めました。
江戸幕府というのは、盲人の保護に熱心で、盲人が金融業を営む場合、借りた者は必ず返さなければならない。法律で厳しくそうなっています。
曽祖父さんは、中ぐらいの大きな旗本の男谷家の株を買って末っ子にそれを継がせ、孫 (海舟の父) は、だいぶ身分は低くて名ばかりの御家人の勝家に金を渡してその養子にしました。
江戸封建制は、空気の対流のように、下の空気が上へあがる仕組みとして、そういう裏口もあったのです。
海舟は、流行のオランダ語を学んで出世し、さらに幕府が長崎に設けた海軍学校で、オランダ式の海軍を学びました。
この海舟も、この時期、アメリカへ参ります。有名な咸臨丸の艦長としてです。幕府は、日米条約の批准の為に、二隻の軍艦を出します。一隻は、アメリカの好意によるアメリカの軍艦 「ポーハタン」 です。この 「ポーハタン」 に前述の三人の使節とその随員や従者数十人が乗ります。もう一隻は幕府軍艦 (そのころ 「御軍艦」 といっていましたな) 咸臨丸です。これが別途に出発するのです。
ふり返れば、ペリーの黒船がやって来て七年後のことでした。こっち側も黒船でもって太平洋をつっきってやれという、江戸日本の心意気というか、ただし、さほどの実を伴いません。使節団は 「ポーハタン」 に乗っているのですから。無駄というか、スポーツのようなイヴェントというか、いわば野外劇のつもりで、咸臨丸をやったのです。物入りな無駄です。ごく最近の日本人なら兎も角、戦前の日本人ならこんな粋な無駄はしませんが、江戸日本の人の方が、無駄の効用というものを心得ていたんでしょうな。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ