〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/26 (月) ブロードウェイの行進 B 

私の話は、枝道に入りすぎているようですな。
実を言うと、ニューヨークのブロードウェイを行進している幕府の三人の使者とその従者たちを語ろうとして、脇にそれたのです。
わざとそれたのです。
彼らブロードウェイの日本人たちは何者なのか、ということを、文明史的に見たいと思ったのです。つまり、中国・朝鮮のような純度100パーセント儒教の国から来たのではない。せいぜい、儒教度20パーセントで、あと80パーセントは武士道と呼ばれる、体系化されざる社会学的な美学、あるいは美学的な倫理の国から来たのです。
彼ら三人は国家を代表する者たちで、当然高官だが、試験によって採用された者ではない。

『海游録』 の中で、申維翰はこのように言っています。
官は大小にかかわらずみな世襲である。奇材俊物が世に出て自鳴することのできない所以である。
民間人のなかで恨みを抱きながら世を去るもの、多くはこのたぐいである。 (246頁)
つまり、封建制ということですね。世襲制。しかし申維翰はもっと詳しく見るべきだったでしょう、学問、芸術、医術、武術に秀でた者は、たとえ百姓の出であっても、幕府であると諸藩であるとを問わず、相当な身分に登用されるという特例つきの封建制であることです。
例えば、申維翰たちを接待した対馬藩の儒者雨森芳洲もまたそういう出目の人で、こういう採用法により抜きん出られた人は、全国的に見ればおそらく朝鮮の科挙試験合格者よりも多かったかも知れない。
ただ一朝にして貴族になるという奇蹟はない。又、支配階級・被支配階級を問わず、養子制度というのがあって、比較的低い家から俊才を選んで当主にするということが、武家にも町人の家にもありました。
げんに、申維翰が江戸城で対面した将軍吉宗は、幕府中興の祖といわれていますが、他家から入った人です。申維翰の朝鮮と比べて、江戸日本の重要な特徴は、日本が圧倒的な商品経済 (貨幣経済) の沸騰の中にあったということです。農村の商品生産者たる富農層、問屋制によってステロタイプに等質に高い商品を作り出す町人層、それらを日本列島の隅々まで流通させる海運業者という三つの大きな柱は、その面だけから見れば、町人つまりブルジョアジーの革命であるフランス革命が江戸日本においていつ起こっても不思議がないほどでした。
商品経済つまり貨幣経済は、モノというものを見つめます。モノを数量で見ます。質で見ます。さらには社会と自分とのかかわりでみます。当然そこから引き出されるのは、封建道徳でなく、合理主義であり、個の自由というものです。
合理主義と個の自由は、とくに後者はヨーロッパの同時期に比べて、1俵の米の前の一椀の飯ほどでしかありませんでしたがそれでも徐々に蓄積されていた事は、江戸中期以後の思想書や文芸において見ることができます。
ここではそれを詳しく説明するゆとりがありません。
申維翰の朝鮮は、一種の理想社会でした。社会に存在するものは、官と農民だけで、問屋制による前期資本主義というものは、存在しませんでした。商品経済という荒々しいものが存在しないために、社会は靜に存在し、後にふり返って隠者の国などと呼ばれましたが、まことにそうでした。
社会の景色は、生産の形態がそうでありますので、日本の奈良朝の景色とさほどに変わりが有りませんでした。それでも習慣としての儒教は隅々に行き渡り、儒教的に言えば日本より格段上の文明国でした。
高度の漢学の知識と詩文を作る能力を持った官僚とそれを目指す人々の他は、文字を用いる必要は、殆どありませんでした。

ところが江戸日本は、朝鮮官僚のような高度の学識を持つ人はまれでるにしても、読み書きする人口は、中国や朝鮮に比して圧倒的に多かったのです。国民の七パーセント程度を占める武士階級は平均して中学卒程度の教養を持ち、他の多くの層にとって商業従事の為に必要でありました。
ですから、江戸日本は精神面で言えば、二つの民族に分かれていました。武士という貧しくても誇り高く、形而上的に物を考え、喜んで死ぬわけでないにしても、いつでも必要とあらば死ぬという事を人士の大前提にして代々その精神を世襲してきた人々と、町人の合理的主義を持つ人々です。
前者もその存在が必要とする為に書物を必要としますが、後者は存在よりも目的の為に文字を必要とします。
農村の次男、三男は都市に出て商家に奉公したり、船乗りになったりしますが、文字が読み書きできなければ、手代、番頭にもなれず、船乗りなら、船頭になれないのです。
いわば、商品経済が彼らに文字を習わせたのです。江戸期の都市における識字率は、おそらく七、八十パーセントはあったかと思います。
わが申維翰は、 『海游録』 というみごとな日本見聞という報告書を書きながら、日本社会を儒教的価値観 (つまり礼があるとかないとかいう) で裁断してゆくのみで、ついに日本社会を揺るがしている商品経済については、見ても意味を見出せなかったか、まったく触れずに終りました。彼は、商品経済の江戸日本を見るべきでした。この側面のみから日本社会を見れば、じつは明治社会はその結果に過ぎないとさえ言いたくなるほどです。

ただ、申維翰は、大坂という商業の町が、おびただしい種類の書物を売る町であることを見ました。このことで、彼は日本をもっと深く察すべきだったんでしょう。
申維翰の大いなる文明国朝鮮にあっては、書物は士太夫の読むものですが、江戸日本においては、固い本は庶民に近い武士階級か、裕福な庶民が読み、しかも、科挙の試験という功利的な目的なしに読むのです。小説の類においては、庶民の読み物でした。
また、日本は十三世紀以来、中国との貿易における輸入品の筆頭は書物であり、おそらく申維翰がやってきた十八世紀、中国で発行された書物で、中国ではなくなっている書物も、日本のどこかで保存されていたはずです。
さらに読み書きのことになりますが、江戸時代、日本で書かれた政治、経済、法制の文書の多さはおそらく中国・朝鮮をはるかに凌ぐでしょう。さらに、文芸や家伝、随筆の類に限って言っても、おそらく中国・朝鮮を凌ぎます。このため、江戸時代史を専攻する学者は、文献の多さに困っているほどです。ただ、朱子学的価値観から言えば、それらの殆どは聖賢の教えと何の関係も有りませんから、無意味な文字ということになりましょう。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ