〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/25 (日) ブロードウェイの行進 A 

ちょっと申し上げておかねばなりませんが、私がこれからお話することは、明治の風俗ではなく、明治の政治の細かい事ではなく、明治の文学でもなく、つまりそういう専門的な、あるいは各論といったような事ではないんです。 「明治国家」 のシンというべきものです。作家の話というのは、どうも具体的です。以下、いろんな具体的な例をあげますが、それに決していちいち即したような、それにひきずられるようなことはなさいませんように。それら断片の群れから、ひとつひとつ明治国家のシンボルは何かということを想像して下されば幸いなのです。
象徴という言葉があります。symbol。十九世紀の世紀末に、フランスの文壇で、象徴主義というのが流行りました。サンボリズム、シンボリズムボードレールに代表されます。
具体的なコトやモノを示して宇宙の秘密を感知するという大げさな表現形式です。
日本には明治末年から大正にかけて入ってきて、蒲原有明、北原白秋、三木露風なども象徴詩を書きました。その為に、象徴という言葉や意味、概念が難しくなりましたが、そんなものじゃなくて、ごく簡単なものです。
割符をご存知でしょう。古代、遠くへ使者を出したりする時、木や金属を割ってその片方を、使者の印として持たせる。受け取るほうは、もう片方を持っていて、合わせてみて使者が本物である事を知る。
ギリシャ語でsymbolonというのは、割符の事だそうですね。それがだんだん象徴という言葉に使われるようになった。
私はいろんな事例を割符として話します。合わせるのは、聞き手としての皆さんです。それらを合わせ続けることで、だんだん “明治国家のシン” という私のこのシリーズの主題を理解してくだされば、文字どおり私のしあわせです。
小説も割符の連続なんです。作者は割符の半分、つまり五十パーセントしか書けないものなんです。あとの五十パーセントをよき読者、よき聞き手が “こうだろう” ということであわせて下さるわけっで、それによって一つのものになるのです。
第一回目ですから、右のようなゴタクをたくさん述べました。

何だか、ボードレールなどという、ガラにもない詩人の名前が出ました。私は、詩があまりわからないんです。が、出たついででるから、ホイットマンの詩の一つをあげましょう。
ニューヨク州生まれのウォルト・ホットマン (1819〜1892) 。日本の明治維新の時は、せでに成熟して、四十九歳でした。
彼は、日本人を詩の題材にした最初の欧米人でした。
彼が日本人たちを見たのは、ニューヨークの広小路 (ブロードウェイ) においてでした。
時に、万延元 (1860) 年の春でした。ここで日本人たちというのは、幕府が派遣した日米条約批准のための使節団のことです。アメリカじゅうが、好意と好奇心でもって彼らを歓迎していました。ニューヨーク市がその歓迎の為に二万ドルという大金の支出を決議していました。
正式の使節は、正使新見豊前守正興、副使節村垣淡路守範正、それに目付小栗豊後守忠順でした。お供は数十人です。
「外国はえびすだ。礼というののがない」
という中国の思想が幕府を毒していました。とくに朱子学が毒でした。その害は、日本は皮膚ぐらいを侵されている程度でしたが、清朝、あるいは李氏朝鮮は、骨髄まで侵されていました。自分の文化と他の文化という問題では、毒薬のような思想でした。破壊的なばかりに自己中心的な考え方で、当然ながら外国は蔑視すべきもの、あるいは異文化などは一切認めぬ、さらにいえば民族を自己崇拝という甘美な液体に浸からせるという思想で、要するに自分の文化以外の世界については思考まで停止しきっているといったものでした。
ここでちょっと枝道に入ります。
“中国 (清朝) と朝鮮 (李氏朝鮮)” と申し上げたことについてです。この両国は同じ東アジアにありながら封建制の江戸期日本と違い、模範的なほどの儒教的中央集権制で、官僚によって国家が運営されていました。この官僚たちは、科挙の試験という、人類史上、最も難しい登用試験によって採用されるのです。採用されれば、信じがたいほどの名誉と地位と富を得ます。いわば、試験採用による一代大名でした。
「それが文明というものだ」
と、この二つの隣国の官僚たちは思っていました。
江戸期の日本もそれ以前の日本も、そういう文明ではありません。日本人たちは七、八世紀以来、儒教の書物は読んでいましたが、社会そのものが儒教という制度を持っていません。
ほんの一例で申しあげますと、婚姻。
婚姻は、社会の基礎です。倫理的人間関係の基礎でもあります。日本では、親戚や姻戚同士の結婚というのは、古代からごく最近まで、いわばざらにあります。こういうことは、中国・朝鮮という二十世紀初頭までの儒教国では、絶対に有りません。いまなお有りません。日本にイトコ夫婦というのがあるなどと聞くだけで、不快さに青ざめます。彼らは何を想像するでしょう。動物の世界を思うらしく、やはり日本は野蛮だということでありままいか。

科挙の試験についても、両国はこれを儒教社会を支える大脳だと思っていました。
もっとも十九世紀に清国と接触したイギリスとフランスはこの制度に感心し、かれら中国の官僚の事をマンダリン (mandarin) とよび、その制度のいい所を採って自国の官僚の採用にも試験制度をつくりだします。
しかし現実の中国・朝鮮の科挙の試験は、まったくのところ、神学的なものでした。受験生は朱子学という神学から、一歩も出てはいけない。神学をドグマと言い換えてもいいんです。ドグマを丸暗記する、ドグマに沿ったあらゆる古典を丸暗記する、その上で、上手い作文を書きます。その作文にまで型があって (八股文いいます) その型のとおりに書かなければいけない。こんな事がやれる人はよっぽど頭がいいわけですが、私などは少しもうらやましいとは思わない。そういう頭脳は、人類の遺産をつくりだせるような類の頭脳ではありません。まことに中国も朝鮮も、無駄な事をやりつづけてきたものだと思います。
とはいえ、李氏朝鮮などは、精密な儒教国家だったものですから、江戸期日本を野蛮国だと思い込んでいました。もっとも儒教では (特に朱子学では) 他国はみなケモノのような野蛮国なんですけれど。
『海游録』 (妾在彦訳、平凡社・東洋文庫) という本があります。申維翰 (インイカン) という十八世紀初頭の科挙合格者の著作です。日本の将軍吉宗の時代には、通信使として日本に来て、右の題の見聞録を書いています。なにしろ朱子学というイデオロギーの固まりのような人ですから、日本人を、人間とは思わず、一段低い人間とみています。日本の民衆も然り、高位の者も、 「人に似たる者がいない」 (203頁) 。
イデオロギーとうのは、一般的にはドグマを核として、人間や社会の中から正と邪、善と悪を選別する体系のことです。朱子学もまたそうです。その価値体系からみれば、日本人は人ではない。人に似もしていない。といって 『海游録』 は奇書ではありません。朱子学的にみれば、きわめて標準的な思想を持った人の著作です。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ