〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/28 (日) 鬱 陵 島 @

○砲弾と魚雷とスクリューに掻きまわされたこの海域において、二十七日とその夜、そして二十八日にかけて、無数のありうべき現実群が発生した。それと同量のやや不思議な事象などが簇りおこった。
しかし主決戦の翌二十八日において起こった以下の事象ばかりは神と悪魔が合作しても起こり得べからざる運命的事件だったかも知れない。
日本海という広大な洋上において、ロシア側の主将のロジェストウェンスキーとその幕僚が全部捕虜になったのである。海戦史上、類のない事であった。
この運命劇の主役として登場するのは305トンの小さな巡洋艦だった。漣 (サザナミ) という艦で、相羽恒三という少佐が艦長だった。
漣は東雲、薄雲、霞と共に四隻で仲間を組み、第三駆逐隊を構成している。司令は吉島重太郎中佐であった。
この二十七日の夜は星がなく、海上はまったくの闇であった。ときどき光るロシア艦の探照燈をみつけては走った。
相羽はこの索敵行の心境をこう語っている。
「海上はおそろしく静かで、マストに騒ぐ風の音と、旗艦の響きだけが物音の全てであった。波浪にもまれてゆくうちに生死のことなどは忘れてしまった。功名をしようという欲もなかった。ただ日本国家に仇をなす敵を滅ぼしたいという一念のみで、今この時の事を思い出すと、自分にもあのような気高さがあったのかと、不思議な思いがする」
と、言う。
この駆逐隊は、四隻の敵艦隊をみつけた。魚雷を射つのには敵と向き合った形が効果的だとされているから、駆逐隊は敵の単縦陣のまわりを一時間ばかりぐるぐるまわり、遂に敵の嚮導艦のへさき400メートルというところを突っ切るという冒険を冒して魚雷を発射した。敵もこれに気づき、小口径砲をさかんに撃ってきたが、距離があまり近すぎるために、砲弾はみな駆逐隊のマストを飛び越えてしまい、駆逐隊に被害はなかった。
ところがこの運動中、漣だけは味方にはぐれてしまったのである。敵の艦隊は、はじめ気づかなかったのだが、左舷に四隻の駆逐艦をともなっていた。漣はそれを味方だと思い、くっついて走った。が、すぐ気づいて味方を探すべく他の方に転じたが、ふたたび左舷に三隻の艦影を見た。
「あれは明石です」
という者がいた。明石 (2755トン) というのは日本の三等巡洋艦だったが、左舷に出現したのは、後でわかった事だがロシアの巡洋艦だった。魚雷発射にには絶好の距離だったが、しかし相羽は怯んだために好機を逸し、艦影は去った。
漣は諸事ついていなかった。
味方を探すうちに艦そのものが故障したのである。
相羽はとりあえず蔚山港で艦を修理しようと思い、急ぎ戦域を離れた。
蔚山港に入ると、似たような事情で駆逐艦陽炎 (カゲロウ) も入ってきた。陽炎は第五駆逐艦隊に所属していて、両艦は隊が違っていた。
「どうも、運がないよ」
と、相羽少佐は陽炎へ離しかけた。陽炎の艦長は大尉で、吉川安平といった。吉川はしきりに首を振っていた。ボンクラ同士が吹き寄せられた感じで、あいづちを打つ元気もなかったのであろう。
両艦とも故障がなおったのは二十七日の夜が明けてからだった。
二艦で臨時に隊を組もうということになり、階級が一つ上の相羽が仮の司令になった。漣が先に立ち、暁光に輝く海へ出て行った。海上は昨夜までのうねりは残っていたが、天候は昨日とうって変わったような快晴で視界がよく利いた。

針路は、東郷に命ぜられているように、鬱陵島である。漣と陽炎は、懸命に海面を引っ掻きながら航走したが、敵艦どころか味方の艦影も発見できなかった。
昼も過ぎてしまった。
この漣に、塚本克熊という、広島県出身で、明治十三年生まれという若い中尉が乗っていた。未婚だったが、婚約者がいた。マスという少女で、塚本は暇さえあればこの婚約者に手紙を書いていた。
塚本は画才があった。特に油絵の腕が素人離れしているほど達者で、勤務の余暇にはよくスケッチしていた。彼は少年の頃東京美術学校へ行って画家になろうと思っていたが、しかしちょっとしたはずみで兵学校を受験する気になり、うまく合格したために海軍士官になってしまった。もっとも長男の塚本張夫氏は画家だから、息子の代になって塚本克熊の夢は実現したといえるかもしれない。ただし、塚本克熊が画家になっていればロジェストウェンスキーは捕虜になるような運命におち入らずに済んだであろう。
塚本中尉の配置は、海戦後、はなやかな戦場から遠かった。 「海門」 という古い海防艦に乗って機雷を取りのける掃海の仕事をしていた。その海門が触雷して沈んでからは、他の乗組員と共に一時、三笠に収容されていた。
その三笠で、東郷を知った。塚本は東郷にせがんで、その双眼鏡を見せてもらった。ドイツのカール・ツァイス社が開発したプリズム式のこの双眼鏡が驚異的な倍率を持っているという事は塚本は聞いていたし、この双眼鏡は東郷しか持っていないことも知っていた。実際に手にとってのぞいて見ると、想像をはるかに超えるほどのものであった。
塚本はそれが欲しくてたまらず、“同じものがほしい。” といって、早速銀座の玉屋に注文した。玉屋はそのころ、横浜の十番館のコロン商会のサブ・エージェントをしていた。この時期、コロン商会にたまたま一つか二つの在庫があったのであろう。驚いたことにそれが対馬の駆逐艦の基地にいた塚本宛に送られてきたのである。値段は三百五十円であった。
「そのころの中尉の給料の一年分でした」
と、未亡人のマスさんは言われる。マスさんは明治十九年生まれで、この稿のこの時期、八十六歳である。
この塚本中尉が、自慢のプリズム双眼鏡で四方を眺めていた。他の者は艦に備え付けの一本メガネといわれる望遠鏡で眺めていた。
午後二時十五分ごろ、鬱陵島に近づいた。この時前方沖合いに二すじの煙が空を薄く染めているのを塚本のプリズム双眼鏡がとらえたのである。
「あれは。----」
と、塚本は言葉もどかしく叫び、相羽に自分の双眼鏡を渡した。相羽がのぞくと、なるほど駆逐艦らしかった。二隻いた。
この戦闘の駆逐艦に、ロジェストウェンスキーが乗っていたのである。
もし塚本のプリズム双眼鏡がなかったとすれば敗残の提督はうまくウラジオストックに逃げる事が出来たであろう。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ