〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/25 (木) 運 命 の 海 E

○この間の東郷の指揮は、ほとんど無謬といってよかった。
東郷は敵に打撃を与えつつ、ときどき艦体の針路を変えた。変えた目的は常に敵の前面を抑圧しつづけるためであった。
「三笠はつねにわが前面にいた」
と、ロシア側の諸記録はいう。常にバルッチク艦隊の前面に三笠が現すためには、東郷は無理な運動をしなけらばならなかった。
東郷は敵前回頭によって一度はバルッチク艦隊の頭を抑えたが、しかしバルッチク艦隊も航走している以上、彼我つねに同形を保てるようにはならない。当初、東郷艦隊は北から来た。それが様々の陣形運動を重ねた末敵前回頭し、東北東へ航進した。これに対し、ロジェストウェンスキーの艦隊はいったんは首を東へ振って左舷で砲戦した。この形は東郷にとって望ましかった。
東郷はさらにより一層敵の頭を抑えるべく、午後二時四十五分、
「南東・二分の一東」
へ変針し、完全な形態としての前面圧迫の陣形を取った。
この陣形によって東郷直卒の第一艦隊とそれに続く上村の第二艦隊は、敵に対して猛烈な縦貫射撃を加えたのである。
旗艦スワロフの司令塔に入るロジェストウェンスキーは、為すところを知らなかった。
スワロフは速力こそ衰えなかったが、猛炎に包まれ、人々は消化に奔走した。炎が消えると、あらたな砲弾が飛んできて新たな火災を起こした。
東郷が第一、第二艦隊に命令した午後二時四十五分の 「南東・二分の一東」 の変針の時、スワロフの艦上にいたセミョーノフ中佐の実感では、
「東郷はまた新針路を進航してきた。三笠は単縦陣をひきいてわが艦隊の前面を横切ろうとする為、右方にまがった」
と、いうことになる。
当然ロジェストウェンスキーに通常の戦意があるならば、彼の艦隊も東郷に合わせて右折しなければならない。右折し、左舷の砲で戦うのである。
(提督はおそらくそうなさるだろう) と、セニョーノフが思ったが、しかしロジェストウェンスキーは依然針路を変えずにどんどん進んだ。おそらく東郷を右へいなし、そのしっぽのあたりを突破するつもりで、ロジェストウェンスキーはいたのかも知れない。
しかし、ロジェストウェンスキーが戦術でもって艦隊をひきずってゆく時期は彼の艦隊の状態においては遅過ぎていた。そういう知的作業は開戦の前後の時間内でやるべきであった。いまは司令長官の戦術よりも、各艦各砲の砲員の目と手と気力にかかっていた。
彼我の距離はわずかだった。砲員達は敵の艦影を見つけ次第射ちまくり、命中させつづけねばならなかった。
ところがバルッチク艦隊の戦艦の多くはすでに火災を上げており、砲は破戒されたものが多く、生き残った砲も、艦を覆っている火災や黒煙のために砲員達の射撃作業が阻害され、いちじるしく命中率が落ちた。
それに引き換え、一艦も燃えていない東郷側は、つねに風上に立つ有利さもあって、命中率がいよいよ正確になってきた。

旗艦スワロフは、燃えている。しかしその司令塔のみはまだ外形を保っていた。司令塔は当然ながら強い防弾能力を持っていた。
傘形の頑丈な屋根がこれを覆って落下弾を防いでいるのである。まるい壁は厚さ10インチもある鋼板で出来上がっていて、艦隊の首脳達の生命をを守っていた。外界を見るには細い隙間から覗かねばならない。ちょうど人間の目の高さにそれがあった。ロジェストウェンスキーもその幕僚も海戦中ずっとその隙間を覗きつづけていた。
三笠が午後二時四十五分変針したとき、典型的な貴族である参謀長のコロン大佐は、この期にいたっても遠慮深げに、
「閣下、ミカサです。こちらへ接近しています」
と、ロジェストウェンスキーの注意を促した。
提督は背をかがめて隙間を覗き込みつつ 「わかっている」 とどなった。
しかしすぐには、異変に即応する命令は出さなかった。
この独裁者は、幕僚の助言を雑音程度にしか思っていなかった。 彼は自分の頭脳にのみ信頼を置いていた。しかしこの錯綜した戦闘場面での指揮において頭脳が占める部分は寡少であった。それよりも勇気が行動を決定すべきであった。が、ロジェストウェンスキーに不足しているものはそれであったかも知れない。
この時期、驚くべきことにスワロフとミカサの距離はわずか2千4百メートルにまで縮まっていたのである。
この戦闘中、東郷とロジェストウェンスキーがもっとも接近した瞬間であり、殆ど主将同士の一騎打ちで刺し違えるというような形勢を現出した。三笠の艦橋で動いている人影さえも見えた。ロジェストウェンスキーは興奮した。
しのあまり、
「トーゴーを殺せ」 とまで思った。
彼がいかに興奮していたかということは提督自らが一介の砲術長 (中佐か少佐級) のようになって直に射撃命令を下したことでもわかる。彼は砲まで指定した。砲は前部左舷の6インチ砲であった。目標は無論東郷である。
「三笠を沈めよ」
という信号は、ロジェストウェンスキーはこの戦闘中のある時期にすでに掲げていた。
今こそその好機であった。シワロフの前部左舷の6インチ砲は轟然と火を噴き、黒煙をあげ、徹甲弾を発射した。艦隊の各艦はそれにならった。
三笠の前後左右に無数の水煙があがり、艦形を水で覆った。が、ロジェストウェンスキーがふりかざした一刀は不幸にも外れた。弾は三笠に命中しなかった。
ロシアは、射撃理論において日本よりも甚だしく遅れていた。
日本の加藤寛治が開発した射撃指導法のようなものは持っていなかった。ロシア側の各砲は勝手に撃った射った。このため三笠附近に水煙が林立してもどの水煙が自分の砲の水煙かわからず、近いのか遠いのか、照準の修正も出来なかったのである。
一方、三笠たちの砲は、変針運動中は沈黙しつづけていた。運動が終了した時、厳密にはロシア側に射たれてから二分後に、轟然と火蓋を切ったのである。むろん日本式の射撃法によっていた。
つまり、最初に三笠の各砲のうち一門だけが試射をする。その水煙を見、その着弾を確かめて、三笠の艦橋上にいる安保清種が各砲台に距離を知らせるのである。この合理方法が、整然たる統制のもとに行われた。
三笠が敵に対する射距離を掴み得た頃、天も海も晦冥した。各艦から猛烈な射撃がおこなわれたのである。もはや射撃というより砲弾の大集団が嵐を巻き起こしているようなものであった。
この火と煙の嵐は敵の旗艦スワロフのみに殺到した。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ