〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/24 (水) 運 命 の 海 D

○「わが全力をあげて、敵の分力を撃つ」
と、いう東郷の戦法は、その思想が奇抜であっただけでなく、その思想を実現するために演じた艦隊運動 (敵前回頭) も奇抜であった。
繰り返すようだが、この光景を目撃した旗艦スワロフの幕僚達の感想は三通りにわかれた。
「東郷、狂せり」
と、躍り上がって喜んだ者、
「東郷は例によってアルファ運動をやった」
と、無感動な説明式の感想だけで終った者などなどがいるが、いまひとつは、
「この運動が問いかけている謎は何だろう」
と、戦術的課題として考えた者もいた。ロジェストウェンスキーもその一人であった。
しかし答えが出なかった。答えが出なければ、考えているより猪突すべきであった。もしロジェストウェンスキーがすぐれた戦闘者であったなら、戦いの意志の命ずるままに変針運動中の東郷に向かって突進すべきであった。
なにしろこの提督は東郷の三笠よりも艦齢の若い新鋭戦艦 (第一戦艦戦隊) を率いているのである。もしこの新鋭戦艦たちをひっさげて全速力で東郷の艦隊の後尾に向かって突進すれば、あるいは東郷のこの魔術的な運動は折角の魔術効果を発揮せず開戦早々に陣形を混乱させたかも知れなかった。
が、旗艦スワロフの司令塔内にいるロジェストウェンスキーは東郷に対抗するのにそれにふさわしい戦術を用いようとしなかった。ただ砲員達に対して射撃を命じるにとどまった。
開戦の幕は午後二時八分、ロシア側の砲火によって切り落とされたことは既に述べたが、ロシアの各艦の砲員達は個々に活動し、個々によく働いた。しかし艦隊という大きな場から見ればこの艦隊は砲員という手足のみが存在し、司令長官という脳髄が存在しないということさえ言えそうであった。
と、言うより、ロジェストウェンスキーその人が、海戦概念の持ち方において東郷よりはなはだしく劣っていた。彼は海戦といえば相変わらず旧来のまま短艦によって互いに叩き合うという思想から僅かしか出ていなかったのである。
東郷とその幕僚達に比べ、基本的に海戦という動態のとらえ方がちがっていた。
ロジェストウェンスキーのこの海戦に臨んでの考え方は、いまこれを推測すれば、神と各艦の艦長と各艦の砲員の働きに任せきっていたということは言えた。
さらに言えば、ロジェストウェンスキーのこの場の思考には重大な捕らわれがあり、それが常に純粋で透明であるべき彼の戦術的思考の足を引っ張り、歪曲させ、にごらせていた。
「東郷の隙をみつけてこの戦闘海域から足を抜き、ウラジオストックへ遁入する」
と、いうことである。
純粋に東郷とこの海域で智よ勇と誠実さの限りを尽くして戦いの航跡を描ききろうという考えは彼にはなかった。
もし彼がその覚悟を決め、この海域を正念場として死力を尽くして戦えば、たがいにその麾下の諸艦を沈めあいつつも残艦がウラジオストックに入れたかも知れなかった。
むろん、彼は、
「何隻かはウラジオストックへ辿りつける。」
と、思ってはいた。しかし彼の囚われは、その遁入成功の何隻かの中に彼自身が乗っていなければならないと思っていたことであった。
その囚われが、彼の戦術思考をして先鋭さを欠かしめ、彼の決断をして鈍重たらしめた。
東郷の奇術の前に殆ど無策でいたという彼の事情はそういうところにあったであろう。

戦艦オスラービアに火災が起こったのは、三笠が射撃を開始してからわずか五分後の二時十五分である。
ついに東郷艦隊は彼我5千メートル以内に踏み込んだ。
この肉薄の状況は、真之がkって造語した 「舷々相摩す」 という形容にやや近づきつつあった。
5千メートル以内に入ると、東郷艦隊から発射される砲弾の命中率が飛躍的によくなった。
真之は相変わらず双眼鏡を用いなかった。肉眼で見ても、すでに敵艦隊の状況はよく見えた。
戦艦オスラービアの損害は大きく、大橋は折れ、煙突はすっ飛び、火災は艦内の各所に起こっていた。しかもこの艦は推線部を砲弾で縦横に貫かれており、その弾孔から大量の海水が入りつつあった。
「オスラービア、傾く」 と、真之はメモをした。
旗艦スワロフのマストも折れており、艦体は火災で包まれていた。真之の肉眼では見えなかったが、加藤友三郎の双眼鏡にはスワロフの甲板上を駆けまわっている消化隊の様子が手にとるように見えた。
火災の最もひどいのは戦艦アレクサンドル三世であった。
これら火を背負って駆け回る各艦の猛煙が、海上に薄絹のように垂れた濛気と入りまじって、思わぬ煙幕をなした。このため日本側は照準が困難となり、ほんのしばらくながら射撃を中止するという処置までとられた。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ