〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/23 (火) 運 命 の 海 B

○要するに東郷は敵前でUターンをした。Uというよりアルファー運動というほうが正確に近いかも知れない。ロシア側の戦史では、
「この時東郷は彼がしばしば用いるアルファー運動を行った」
という表現を使っている。
繰り返すと、東郷は午後二時二分南下を開始し、さらに145度ぐらい左 (東北東) へまがったのである。航続する各艦は、三笠が左折した同一地点に来ると、よく訓練されたダンサーたちのような正確さで左へまがってゆく。
それに対しロジェストウェンスキーの艦隊は、二本もしくは二本以上の矢の束になって北上している。その矢の束に対し、東郷は横一文字に横断し、敵の頭を抑えるようとしたのである。日本の海軍用語で言うところの、 「T字戦法」 を東郷はとった。
T字戦法の考案は、秋山真之にかかっている。真之がかって入院中、友人の小笠原長生の家蔵本である水軍書を借りて読み、そのうちの能島流水軍書からヒントを得たものだということは以前に触れた。ただこの戦法は実際の用兵においてはきわめて困難で、場合によっては味方の破滅を招く恐れもあった。
げんに、敵とあまりにも接近しすぎているこの状況にあっては、真之も之を用いることに躊躇した。
三笠以下の各艦が次々に回頭している間、味方にとっては射撃が不可能に近く、敵にとっては極端に言えば静止目標を射つほどにたやすい。
たとえ全艦が15ノットの速力で運動していても、全艦隊がこの運動を完了するのは十五分かかるのである。この十五分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送り込むことが出来るはずであった。
戦艦アリョールの艦上からこの東郷艦隊の奇妙な運動を見ていたノビコフ・プリボリも、
「ロジェストウェンスキー提督にとって、一度だけ運命が微笑したのである」 と書いてある。
戦艦朝日に乗っていた英国の観戦武官W・ペケナム大佐は東郷を尊敬することのあつかった人物だが、この人物でさえ、このときばかりは東郷の廃滅を予感し、
「よくない。じつによくない」 と、舌を鳴らしたほどであった。
希代の名参謀といわれた真之でも、もし彼が司令長官であったならばこれをやったかどうかは疑わしい。彼はおそらくこの大冒険を避けて、彼が用意している 「ウラジオまでの七段構え」 という方法で時間をかけて敵の勢力を漸滅させてゆく方法をとったかもしれない。
が、東郷はそれをやった。
彼は風向きが敵の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波が高いためただでさえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、などをとっさに判断したに相違なかった。
「海戦に勝つ方法は」
と、後に東郷は語っている。
「適切な時機を掴んで猛撃を加えることである。その時機を判断する能力は経験によって得られるもので、書物からは学ぶことが出来ない」
用兵者としての東郷はたしかにこのとき時機を感じた。
そのカンは、彼の豊富な経験から弾き出された。

旗艦スワロフの後部艦橋で三笠の奇妙な動きをみたセミョーノフ中佐は、
「東郷は狂したか」
と、たまたま横にいた右舷副砲の後部砲塔の指揮者レドキン大尉に向かって叫んだ。レドキンも、
「日本人は何を為そうとしているのか」
と、雀踊りした。レドキンに言わせれば、東郷の艦隊は、いま回頭運動をしつつある三笠と同様、次々にその場所で動かざる一点になるのである。ロシア側はその一点に照準をつけて射ちさえすれば射撃遊戯のようなたやすさで日本の主力艦隊を一艦ずつ葬り去ることが出来るのである。
スワロフの司令塔のなかで東郷のこの変化を見たロジェストウェンスキーは、すぐさま射撃を命じた。恰も三笠が回頭を終えて新針路につことした時であった。
時に、午後二時八分、距離は7千メートルである。スワロフの前部主砲十二インチ口径の巨砲が、日本海を震わして最初の砲弾を三笠へ送った。艦体がずっしとふるえ、砲煙が背後へ去り、人々は砲弾の行方を見守った。
その初弾は砲戦に於ける初弾の多くが命中しないように、空しく三笠の上を飛び越えて、その二本煙突のむこう側に水煙を上げた。
その後は、バルッチク艦体の主力艦という主力艦が、主砲、副砲をめったやたらに射ちまくった。
が、三笠は応謝しない。他の艦も、ノビコフのいう 「びっくりするほど鮮やかな手際の」 陣形運動を静かに行っているのみで、応射はしなかった。陣形運動の為に応射しようにもそれが出来なかったのである。
たしかに運命の神が、この東郷運動の完了するまでの間十五分間は一方的にロジェストウェンスキーに微笑みつづけたのである。

命中弾も多かった。そのほとんどを、旗艦三笠が吸い込んだ。東郷は最初からそのつもりでいた。
真之は後にこのように語っている。
「敵が初めて火蓋を切ったのは午後二時八分であった (真之は艦橋上でそれをノートに書き込んでいた) 。そのあと、敵の各艦が猛烈に射ってきた。この最初の三、四分のあいだに飛来した敵弾の数は少なくとも三百発以上であったかと思う」
この間、三笠の被害はすさまじいものであった。
三笠はこの日一日の海戦で、右舷側に四十個、左舷側に八個の弾痕をとどめたが、その大半はこの最初の回頭直後に被ったものであった。
三笠は一方的に射たれた。その炸裂音の物凄さは、巨大なハンマーで艦体をたたきのめられているようであり、備砲のうち一発も射たないうちに破戒されたのもあった。砲弾の破片は艦内を飛んで兵員達を薙ぎ倒し、甲板はたちまち流血でいろどられた。
以下の事態は応射後に起こったことだが、右舷第十六発目の命中弾は兵員厠外の鉄板を貫いて内壁で大爆発し、その辺りの兵員を将棋倒しにしてしまっただけでなく、無数の破片が四方に散った。
それが司令塔にまで及んだ。装甲に囲まれているのはずの司令塔にまで飛び込み、そこにいた参謀飯田久恒少佐と水雷長菅野勇七少佐および下士官兵二名を負傷させた。
その間、東郷は双眼鏡をかざしたまま艦橋の彼の位置に立ち尽くしていた。
水中への落下弾のしぶきでこの艦橋さえびしょ濡れになっており、砲弾の飛翔音は間斷なく頭上に鳴りつづけていた。そのうち、砲弾の大破片が東郷の胸元をわずか十五、六センチの空間をかすめて飛来し、横の羅針儀に突き刺さった。羅針儀はびっしり釣床をもって巻かれていたが、その釣床のひとつに突き刺さったのである。釣床の緒が切れ、釣床一本が東郷の足もとにころがった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ