〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/23 (火) 運 命 の 海 A

○風が檣頭で悲鳴をあげるように鳴り続けている。
旗艦三笠の揺れがひどくなり、わずかにエンジンの響きが床に伝わってきていた。
艦内は無人の森の中のように静かであった。配置についている兵たちは凍りついたように身動きせず、私語をする者もなかった。新参の水兵たちは口中が干あがり、喉に送るべきツバがなくなった。黄海海戦を経験しなかった者も多かった。彼らはこの重苦しい緊張に堪えかね、自分の次の行動と生死を決してくれる号令を待ちかねていた。
前部艦橋では、人々の位置は先刻と変わらない。東郷は相変わらず両脚をわずかに開き、敵の旗艦スワロフを見つめつつ、ときどき胸元の双眼鏡をあげたり、おろしたりしていた。
のち、東郷に親炙した小笠原長生は、この午後一時十五分すぎの情景をこの艦橋の人々から詳しく取材した。
彼の文章を借りると、このとき秋山真之が東郷に近づき、
「先刻の信号、整へり。直ちに掲揚すべきか」
と聞いたという。
「先刻の信号」 というのはかねて用意した特別の旗旒 (キリュウ) 信号のことで、後に有名になるZ旗がそれであった。
艦隊の各艦とも信号書を持っている。その信号書に、この出動の数日前、四色のZ旗一旒が掲げられた場合の信号文が、エンピツ文字で書き込まれていた。その文章については各艦の航海長か航海士が知っている程度で、艦隊の誰もが知らない。
せでに戦闘の開始は、分秒を数えるまでに迫っている。
真之が許可を乞うと、東郷はうなずいた。
真之が、信号長へ合図した。四色の旗はやがて瓢風のなかに舞い上がった。

  「皇国の興廃、之の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。」

各艦とも、この信号文がすぐさま肉声に変わり、各部署の伝声管を通じて全員の耳に伝わった。
旗艦みかさにあっては、伝令をつとめていた河合太郎翁も、彼のそばの伝声管に響いてきたこの声を聞いた。彼は大急ぎでそれを口移しに各パイプに伝声した。
当時、戦艦富士の後部十二インチ砲塔の砲員だった西田捨市翁も、この信号文を聞いた。伝声管の声はカン高く、しかも文語であるため意味はよくわからなかったが、この海戦に負ければ日本国は亡びるのだというぐあいに理解し、わけもなく涙が流れた。

東郷が運動してゆくにつれて風向きが変わった。
東郷は風上に立った。東郷にすれば意図的にやったわけだが、一水兵に過ぎなかった西田翁からすれば、これが奇蹟の現象のように感じられたらしい。
「じつに不思議でした。にわかに黒雲が出て、敵側に強風が吹き始めたのです。風上に立てば砲の命中率はよくなります」
と、西田翁は大阪府摂津市浜町の自宅で語られた。
この直後、三笠の艦橋の風景が変わった。
東郷は依然その場所にいる。
それに寄り添って参謀長加藤友三郎と秋山真之が風の中に立っているが、他の幕僚達は一段下へ降り、装甲で鎧われた司令塔の中に入った。

この前後のことを少し詳しく述べると、Z旗が掲げられた後、航続する各艦が、
「了解」
という返答を表す応旗 (アンサー) を掲げた。参謀清河純一大尉が旗甲板でZ旗の降ろし方の指揮をしていた時、最上艦橋では秋山真之が、統合に対し、
「司令塔の中に入ってください」
と頼んだのである。
が、東郷はかぶりをふった。
「ここにいる」 と言った。
副官の永田泰治朗中佐が東郷に寄り添うようにして、かさねて頼んだ。さらに加藤参謀長も 「ぜひ」 と言って、言葉を添えた。
しかし東郷は動かなかった。艦橋はいわば露台で、吹きっさらしであるうえに、戦闘中は砲弾が飛び交い、炸裂した砲弾の破片がそのあたりの人員を薙ぎ倒してしまう公算が高い。そのために司令塔という装置がある。司令塔に入ると視野が制限されるとはいえ、しかしそれを囲んでいる分の厚い装甲 (十四インチ) が戦闘中の指揮官の生命を守ってくれるはずであった。
しかし東郷は動かず、命令の形で、
「自分は齢をとっているから、老い先から考えてどこでどうなっても知れている。だからここ (艦橋) にいる。みなは塔の中へ入れ」
と、言った。
戦闘ともなれば、先頭艦であるこの三笠に敵の砲弾は束になって集中するであろう。東郷にとって過去の提督の模範はネルソンしかなかったが、ネルソンは戦闘中に戦死した。東郷もおそらくこの戦役におけるこの最終決戦において自分の生命は終わると覚悟していたに違いない。
参謀長の加藤友三郎は、東郷のその気持ちがよくわかった。
「では」
と、幕僚達に向かい、分散しよう、と言った。かって黄海海戦の時三笠の幕僚達が艦橋上で固まっていたために一弾で数人も負傷するという事態が発生した。分散しておれば誰かが生き残るだろうと加藤は思ったのである。
「秋山とおれとが、おそばに残る。飯田と清河は塔内で仕事をしろ」
飯田と清河はその通りにした。副官も入った。
艦橋に残ったのは、東郷とその二人の幕僚だけになった。
ほかに艦の砲術指揮をしなければならない安保少佐と測距儀を操作している長谷川清少尉と玉木という少尉候補生などが残っている。
Z旗があがった時刻は、午後一時五十五分であった。
ロシア側は、真っ直ぐに北上してくる。
日本側はこれに対し北から下がった来てロシア側に対し反航する形をとった。反航とは敵に対しすれちがう形をいう。
〜〜〜〜〜〜〜〜
彼我の艦隊は刻々近づいている。安保清種は出来るだけ落ち着くように自分に言い聞かせていたが、しかし彼我の速力が相当速く、気のせいか、瞬くごとに敵の艦影が大きくなるような気がする。
安保砲術長の部下が、測距儀に両岸を押し付けている長谷川清少尉であった。その長谷川が、
「距離八千五百メートル。」
と言った時、安保砲術長はたまりかねて東郷と加藤に対し、 「もう八千五百メートルです」 と、言わいでものことであったが陣形決定をせきたてたい気持ちもあって叫んでしまった。
加藤参謀長は振り向くなり、
「砲術長」
と、蒼白な顔で言った。加藤の胃痛はこのときもなお続いていた。
「君が、一つスワロフを測ってくれるか」 と言った。
このあたりが、加藤という、いつの場合でも不気味なほどに冷静でいられる男の不思議さであった。
敵旗艦スワロフとの距離は長谷川少尉が測距儀をのぞきながら報告したばかりであり、安保少佐があらためて測りなおすまでもなかった。しかし加藤はこの場になってもその入念な態度を失わなかった。
安保少佐は真之の横をすり抜けて後方へ行き、長谷川少尉と交代した。のぞくなり、驚いた。すでに彼我の距離は八千メートルに近づいていたのである。
「もはや八千メートル」
と叫び、そのあと、
「どちら側で戦をなさるのですか」 と、どなった。
左舷か、右舷か、どちらであるかを決めてもらわなければ射撃指揮の準備が出来ないのである。この時安保清種ほどの者でも、東郷が考えていた陣形を想像する事が出来なかった。
「・・・・・私は大声でつぶやいたのです」
と、安保清種は後に語っている。“つぶやいた” というのは東郷と加藤をどなりあげるような失礼をしたわけではない、ということであろう。
ところが彼がそう “つぶやいた” 時、安保砲術長の記憶では、彼の眼前で背を見せている東郷の右手が高くあがり、左へ向かって半円を描くようにして一転したのである。
瞬間、加藤は東郷に問うた。東郷が点頭した。この時、世界の海軍戦術の常識を打ち破ったところの異様な陣形が指示された。
「艦長。取舵一杯・・・・」
と、加藤は、一度聞けば誰でも忘れられないほどに甲高い声で叫んだ。
艦長伊地知大佐は、一段下の艦橋 (フライイング・ブリッジ) にいた。彼の常識にとってもこの号令は信じられないことであった。
取舵の号令は、 「トォォォ」 と長く引っ張って、 「リカァジ」 とむすぶ。左まわしのことである。取舵ろは面舵 (右舵) に対する言葉で、日本古来の水軍用語である。
「一杯」 というのは極度にまで舵を取って艦首を左のほうへ急転せしめることをいう。
伊地知が驚いたのは、既に敵の射程内に入っているのに、敵に大きな横腹をみせてゆうゆう左転するという法があるだろうかということであった。
伊地知は思わず反問し
「えっ、取舵になるのですか」
と、頭上の艦橋へどなりあげると、加藤は、左様取舵だ、と繰り返した。
たちまち三笠は大きく揺れ、艦体が軋む程の勢いをもって艦首を左へ急転しはじめた。艦首左舷に白波があがり、風がしぶきを艦橋まで吹き上げた。
有名な敵前回転が始まったのである。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ