〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/23 (火) 運 命 の 海 @

○日本海海戦は、幕末から明治初年にかけての革命政治家である木戸孝允が、生前口癖のようにいい続けていたところの、
「癸丑甲寅 (キチュウコウイン) 以来」
という歴史のエポックの一大完成現象とも言うべきものであった。
癸丑はペリーが来た嘉永六年のことであり、甲寅とはその翌年の安政元年のことである。この時期以来、日本は国際環境の苛烈な中に入り、存亡の危機を叫んで志士たちがむらがって輩出し、一方、幕府も諸藩も江戸期科学の伝統に西洋科学を溶接し、ついに明治維新の成立と共にその急速な転換という点で世界史上の奇跡といわれる近代国家を成立させた。
同時に海軍を、システムとして導入し、国産の艦船を造る一方、海上より来る列強の侵入を防ぐだけの戦略を検討しぬいて確立し、山本権兵衛を代表とする、勝つための艦隊の整備を行った。
要するにあらゆる意味で、この瞬間から行われようとしている海戦は癸丑甲寅以来のエネルギーの頂点であったといってよく、さらにひるがえって言えば、二つの国が、互いに世界の最高水準の海軍の全力をあげて一定水域で決戦をするという例は、近代世界史上、唯一の事例で、以後もその例を見ない。

旗艦三笠が、ついにロジェストウェンスキーの大艦隊を発見するに至るのは、午後一時三十九分である。
「左舷南方」
といわれる。
厳密には南西であろう。その沖合いにこめる乳色濠気のなかに点々と黒いシミが滲みはじめたかと思うと、その濠気のキャンバスを破るが如くして、意外に大きな艦影が次々に出現した。
視界が広くなかったためこの発見の瞬間には、すでにそれほど近い距離で遭遇するはめになったのである。
三笠の艦橋では、
「来た」
と呟いた者はいない。
艦長の伊地知彦次郎は、赤ら顔に剛い顎鬚を生やし、ほんの最初に双眼鏡をのぞいたきりで、目を遠目に細めて艦影を見つめつづけている。
羅針儀のそばにいる航海長の布目満造中佐は海図を覗き込んで敵味方の位置を測り、そのやや後ろに砲術長の安保清種少佐は弾道の時間を計るためのクロノグラフ (秒時計) を握って敵を見つめていた。
参謀長の加藤友三郎少将は望遠鏡を目に当ててまま殆ど微動もしなかった。
東郷平八郎はこれら幕僚達よりも半歩ばかり前に出て立っていた。という意味では彼は連合艦隊の誰よりも敵に最も近い位置にあってその肉体を曝していたということになるであろう。
東郷は首から吊るしたその自慢の双眼鏡をほんの少しかざしただけで、あとは人並みはずれて視力のいいその肉眼によって敵をとらえようとしていた。
彼は両脚を休メの形にしてわずかに開き、左手に長剣の柄を握り、身動きというものを全くしなかった。
彼の統率錠の信条はどうやら、司令長官は全軍の先頭のしかも吹きさらしの空中 (前部艦橋) にあって身動きしないというところに基本を置いているようであり、その姿は、一種不動の摩利支天を見るようであったという。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ