〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/16 (火) 東郷 平八郎

三月二十七日の第二回旅順港閉塞作戦も失敗に終わり、東郷の連合艦隊は旅順港に釘付け状態になっている。いくら挑発しても旅順艦隊は出てこない。唯一、ロシア海軍の名将マカロフが果敢に挑戦してはくるものの、それ以上の深追いは決してしてこなかった。
そのマカロフを機雷設置によって旗艦 「ペトロパウロウスク」 と共に海底に沈めたのが四月十三日のことである。
しかし、その代償というべきなのか、連合艦隊は途方もない厄災に見舞われることになる。
その日、五月十五日、今度はロシア側が仕掛けた機雷によって連合艦隊は大損害を被るのであった。
虎の子の戦艦 「初瀬」 「八島」 を失う痛恨の出来事だった。ロシア二大艦隊と正面から戦うために無理を重ねた六六艦隊 (戦艦六、巡洋艦六) は海戦以前に戦艦二隻を失ってしまったのだ。その他にも巡洋艦 「吉野」 が見方同士の衝突事故で、駆逐艦 「暁」 、砲艦 「大島」 、通報艦 「宮古」 などが触雷事故、衝突事故によって沈没した。その知らせを受けて連合艦隊司令部に戦慄が走る。
「これで勝てるのか?」
参謀長島村速雄も秋山真之も、各艦の水兵に至るすべての兵員が沈痛な空気に包まれる。
唯一人、司令長官東郷平八郎だけが普段と変わらない。顔色一つ変えていない。
「初瀬」 「八島」 の艦長たちが報告に訪れ、声を出してその悲運を泣いた。その時でも東郷は平然と 「みな、ご苦労だった」 と言って、テーブルの菓子をすすめる。
その姿に秋山は瞠目する。
俺はこの人のように出来るだろうか。
そして連合艦隊の兵員全てがこの司令官の存在を再認識するのであった。

夕闇が迫る佐世保の駅に一人の初老の男が立った。昨夜降った雨で地面は多少ぬかるんでいる。軍服を着ていることから軍人であることは遠目でもわかるのだが、出迎えは三人だけで実に寂しい。階級は海軍中将。歳は五十六歳だが大分老け込んで見える。男は前屈みに、狭い歩幅でとぼろぼ歩く。
この男こそ翌年から始まる日露戦争でロシア艦隊を殲滅する連合艦隊司令長官で、のちに 「東洋のネルシン」 と謳われた提督だ。
男の名は東郷平八郎。
東郷は強運であるといわれた。実際その理由で舞鶴鎮守府司令長官という閑職から常備艦隊司令長官に大抜擢されたのだ。抜擢したのは海軍大臣山本権兵衛である。
当時の東郷は海軍内部でも地味で目立たない存在だった。明治天皇がこの人事を訝ってその理由を山本に問うのだが、山本は冷や汗ものだった。もちろん山本は東郷を高く評価している。窮した山本は 「運のいい男」 と答えてしまう。
それで東郷は日露戦争を連合艦隊司令長官として戦うことになった。
確かに東郷は運がいい。バルッチク艦隊の撃滅という完全勝利は数々の天佑の連続だった。
その海戦を経験したもの達はみなそう答えている。名将は運がよくなければいけない 。従って悲運の名将などありえないともいわれる。
しかし、東郷は運のいい男だったのだろうか。少なくとも山本が抜擢した時点で東郷を 「運の強い男」 と認識する者は海軍の中では山本以外誰もいなかったのではないだろうか。
また日露開戦後も上記の 「初瀬」 「八島」 などを失う大事故やこの後の黄海海戦で敵艦隊の取り逃がし (実際は再起不能状態にしたのだがそれを確認できなかった) など不運の連続だったような気がしてならない。
しかし、東郷は常に冷静であり続けた。その姿が連合艦隊の司令長官としての信頼と勝利への確信を兵員全てに浸透させてしまうのだ。
東郷という男はいったい何者なのだろう。

東郷も鹿児島の加治屋町出身である。薩英戦争では鹿児島の砲台を守っっていた。
東郷平八郎の幼年から青年期をたどると後年のイメージとは大分異なるようだ。
青年期までの東郷の渾名は 「スケイボ」 である。東郷の伝記はその意味を 「腕白で利発、弁が立つ」 と解しているが、どうもこのニュアンスがピンとこないのだ。
長くそのこtに疑問を感じていたのだが、 「スケイボ」 が 「スケイ」 と 「ボ」 で切り離すことに思い当たった。 「スケイ坊」 のことではないか。 「スケイ」 とは 「戯けた」 「愉快な」 「剽軽な」 という意味がある。その後の東郷のイメージがあまりにも偉大すぎてなかなかそこまで考えが及ばなかったのだ。東郷は確かに腕白であったが同時に剽軽者であったわけだ。
東郷は戊辰戦争に薩摩軍として従軍するが、この 「スケイボ」 が大久保利通の逆鱗に触れてしまう。そして、西郷の取り計らいもあって薩摩海軍に入隊するのだが、山本同様に東郷も陸軍に居場所を持てなかったという点が面白い。
東郷のこの性格を一変させるのが明治になってからの英国海軍留学にあるとおわれている。
当時の東洋人への偏見と七年の孤独で辛い海軍修業が寡黙な海軍軍人に変容させたとするものだ。当然それもあるだろう。
しかし、実際はその留学中に勃発した西南戦争と西郷隆盛の死が最大の要因ではないかと私は考える。それは他の稿でも書いたが、薩摩出身でありながら西郷軍に参加しなかった者や明治政府軍として戦った若者達に共通する西郷隆盛から受け継いだ志ではないかと。

とんかく東郷は変わった。帰国後の東郷は海軍 「軍人」 として変身していたのだ。自分の才や勇を表に出す剽悍さは姿を消して、忠実に 「海軍軍人」 であろうとした。その作業は大山の 「己を空しく」 するものと酷似しているようであるが、大山や従道が軍隊のリーダー的存在だったのに対して東郷は一士官であった。
この後、東郷は 「浪速」 などの艦長を務めるのだが 「軍人として職務に忠実であり、使命をただ遂行することを第一」 とした。
この東郷の変容を山本権兵衛は見逃さなかった。
日露戦争以前で東郷の存在をアピールする場面は少ない。健康面にも問題があって何度も休職している。それ故に山本の海軍リストラの名簿にも記載されたほどだ。東郷の名が世間を騒がせたとすれば日清戦争以前のハワイで日本人脱獄囚の米国への引渡しを拒絶した事件と日清戦争での英国商船撃沈事件ではないだろうか。いずれも東郷の国際法の解釈が認められて事なきを得ているが、国際法信奉者で頑迷な軍人と映ったことだろう。山本自身も海軍首脳として頭を痛めただろうが、常に毅然とした態度と確信、そしてその決断力からこの 「ケスイボ」 といわれた男の変容を深く感じ取ったのだろう。大事を託すとすれば東郷しかいないと。

その東郷には過去の失敗を経験として生かす姿勢が窺がえる。その一例がバルッチク艦隊を迎えるべく鎮海での待機中に徹底して行った砲撃訓練である。
「百発百中の砲門一門は百発一中の砲百門に匹敵する」 。これは薩摩の軍艦 「春日」 に乗艦した初陣の 「阿波沖海戦」 で榎本武揚率いる幕府海軍と戦った時の苦い記憶から出たものである。
この海戦では双方の技術の未熟から一発も命中弾がなかったのだ (資料によっては東郷の放った砲弾が三発命中との記述もあるが、その被害は軽かったことに変わりない)。
「あん時はちっあがって」 (興奮して) と後年語っているようだが、この時の失敗を糧に日露海戦での日本海軍砲撃技術の高さを世界中に伝え、殲滅という完全勝利に導いたのである。
また、旅順港閉塞作戦では 「聖歌の危うい作戦を認めない」 という姿勢を示している。
そして、前記の艦船事故での態度は彼が磨き上げた軍人・司令官としてのあるべき姿だったろう。
そして、日本海海戦で集中砲撃で戦闘不能状態の敵艦に対して攻撃を続行させる東郷。思い余った秋山真之が砲撃中止を願い叫んだ時、
「降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。然るに敵はいまだ前進している」 とする姿勢には戦争という修羅場に生きる軍人の厳しさを教えられる。

人間は誰しも幸運であろうと願うものである。しかし、その願いとは裏腹にその恩恵を得られる者は非常に少なく、その幸運に遭遇していても気づかないことさえあるだろう。
「運の強い男」 東郷はどう引き寄せてバルッチク艦隊に突進していったのだろうか。

日本は宗教に寛容な国である。八百万の神といって、どのようなモノにも神が宿ると日本人は考える。それはトイレや大便、小便にも存在するという。昔から厠は綺麗にしておかなければ 「運を逃がす」 という教えはそこからも来ているのだろう。
旗艦 「三笠」 のトイレで用を済ませた東郷が便器の所々にこびり付いた糞尿の固まりを、じっとみつめて、カリカリと自分の爪で剥がし取っていた姿が目撃されている。海軍の伝統だったのか、若い広瀬たちが率先して素手で便所掃除に励む姿に影響されたのかは分らないが。
東郷平八郎。面白い人物である。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ