〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/04/23 (水) 逃 げ る 女 (二)

「空蝉の 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな」 (光源氏)
抜け殻を残した人よ 身の内の人柄をこそ 抱きたかりしを (万智訳)
空蝉は、薄衣を残して消えてしまった。右の一首は、その薄衣を持ち帰った光源氏が、懐紙に綴ったものである。相手に思いを伝えるというよりは、自分自身の感慨にふけるといった趣で、彼にしてはなかなkいい歌である。
空蝉の意味は、蝉の脱け殻のことで、彼女の残した薄衣をそれにたとえた。あなたは、蝉が姿を変えるように、脱け殻を残して私の前から去ってしまった。その木の下で、私はなお、あなたの人柄を懐かしく思っていることだよ・・・・。
この 「人がら」 という一語。かっては、脱け殻の 「がら」 と、うまく掛けたなという程度に思っていたのだが、ここに、あらてめて私は立ち止まった。 「人がら」 には、現代と同じく、性格や人となりの意味がある。
「私はあなたの容貌や、身分や人妻という立場や、そんな外の条件に惹かれたのではないのです。もちろん最初は、そういった意味もありました。けれど結局のところ、私にアプローチされながらも、とことん謙虚で、ひかえめで、奥ゆかしい、そんな人柄に、魅力を感じたのですよ。
そっとかいま見たときにも、期待は裏切られませんでした。外見は、隣にいた女性のほうがはるかに美しかったけれど、私はあのとき、あなたのつつましさが本物であることを確信しました。
そんなあなたの、内なるものをこそ抱きしめたかったのに、よりによって一番外側の衣を残されるとは・・・・・」
そんな光源氏のため息が、この一首からは生々しく漏れ聞こえてくるようだ。
古語の 「なほ」 には 「依然として」 とか 「いっそう」 という意味に加えて、 「それでもやはり」 という、否定を越えてあらためて肯定するつかわれ方がある。この歌の 「なほ」 は、そのニュアンスではないだろうか。
弟の小君から、光源氏のこの歌を見せられた空蝉は、同じ懐紙の端の方に、次の一首を書きつけた。
「空蝉の 羽におく露の 木がくれて しのびしのびに ぬるる袖かな」
人知れず空蝉の羽におく露のようにこぼれる私の涙 (万智訳)
源氏と同様、気持ちを歌に託してはいるが、相手に贈るつもりはない。二人の歌を読んでいる読者のなかでは、やりとりが成立しているように見えるが、実際はそうでないところが、せつない。こんなふうに密かに空蝉が涙していることを、光源氏は知らないでいるのだ。互いに球を打ち合うのではなく、壁に向かってテニスをしているような、寂しさである。
ところで、この空蝉の一首は、 『伊勢集』 にあることが知られている。つまり、自作ではなく、日ごろ親しんでいる和歌に、自分の思いを託したという形だ。伊勢は、三十六歌仙の一人で、古今集時代を代表する女流歌人。歌風は 「情熱をおさえながら力いっぱいに歌って、つつましやか」 (旺文社古語辞典) 。まさに空蝉にはぴったりだ。
とはいえ和歌は、心の結晶である。本来なら、ここで思いっきり空蝉の本音が聞けることを、読者は期待する。光源氏に贈るつもりはない、独白のような場面なのだから。
地の文では、 「こんな私の態度を、わきまえのない女だと思っておられるにちがいない」 とかまだ人妻になる前、娘のころにこんなことがあれば・・・・」 とか空蝉の気持ちは一通り描写されている。が、最後の最後に置かれたこの一首 ( 「空蝉」 の巻は、この歌で、ぷつんと終わっている) が、借り物というのは、なんとも物足りない。
もっと彼女の本心が知りたい、もっと愛に前向きなところを見せてもいいんじゃないか、もっと本音の言葉を・・・・。そんなことを思いつつ、私はハッとした。これこそまさに、光源氏が彼女に抱いた、歯がゆさではないだろうか。
作者の紫式部は、空蝉という女性のとらえにくさを、私たち読者にも味あわせてくれたのだ。
彼女の 「人がら」 を覗かせるものではなく、美しい貸し衣装のような和歌を一首、残すという手法によって。
ちなみに、 『伊勢集』 の伝本のうち、この一首が載っていないものが二つあり、後人による増補ではないかという説もある。そうすると、逆に 『源氏物語』 を読んだ人が、 『伊勢集』 に取り入れたことになる。
『源氏物語』 の影響は絶大で、この物語に引用されたために見直されて、勅撰集に入ったものもあるぐらいだ。だから、その可能性も否定できないだろう。
が、リアルタイムで源氏を読んでいた人たちが、最後を借り物の和歌でしめくくられた時の、複雑な感慨を思うと、それも捨てがたい。肝心なところで、肩すかしを食わせる女。それが空蝉なのだ。
『愛する源氏物語』 著:俵 万智 発行所:文芸春秋 ヨ リ