〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/04/23 (水) 逃 げ る 女 (一)

光源氏は、しょっちゅう 「かいま見」 をしている。今、かいま見ると言えば、たまたまチラッと目に入ってしまう感じだが、平安朝の貴族たちは、もっと意識的だし、積極的だ。当時は、女性が人前に出ることはほとんどなかったから、そうでもしないと、なかなか顔を見ることはできない。はっきり言って 「のぞき」 であり、 「立ち聞き」 であるが、そんなに罪深いことではなかったようだ。恋する (あるいは恋をしようとす) 男性にとっては、相手の女性を確かめるための、一般的な手法なのである。
光源氏が、物語のなかで最初にかいま見をするのは、空蝉と軒端荻 (ノキバノオギ) が碁を打っている場面だ。
空蝉は、年老いた伊予介の後妻で。軒端荻は、伊予介の先妻の娘である。つまり義理の母娘が碁を打っているわけだが、こもときすでに、光源氏は空蝉と強引な契りを結んだ後だった。
その最初の無理やりの逢瀬のときから、空蝉は一貫してつれない態度をとっている。
光源氏のことが嫌いなのかというと、そうではない。が、自分のような中流の、しかも人妻の、しかも年上の、しかもたいして美人でもない女に、彼ほどの男が本気になるはずがない。ひとときの気まぐれで遊ばれるなんて、かえって惨めだ、という気持ちのようだ。
確かに、光源氏が空蝉に興味を持ったきっかけは、例の 「雨夜の品定め」 である。中流の女に、意外と掘出し物があるという話が、頭のすみにあった。
そういった背景を彼女は知るよしもないが、何かピンとくるものがあったのかもしれない。
「こんな状況、冷静に考えればおかしいわ」
客観的に見ればその通りだが、普通の女性なら、そう冷静にはなれないところだろう。実際に光源氏に抱きしめられて、ああだこうだと愛の言葉を囁かれてしまえば、ぽーっとなり、勘違いして、自惚れてしまっても仕方がない。逆に、そうならない空蝉という女性は、とても謙虚で、人の心の動きを見る目がある。
しかし恋愛の常として、彼女が冷たくすればするほど、光源氏はのめり込んでしまう。こういう場合、自分に自信のある人ほど、症状は重い。どうしても、もう一度逢いたいと恋い焦がれ、空蝉の弟である小君を手なずけて、手紙をおくったり、手引きをさせたりする。
その手引きも、一度目は失敗に終わった。こうなったら、もう意地である。さたにしつこく光源氏はがんばって、そして実現したのが、囲碁をする二人の女性のかいま見だ。
ここではじめて、光源氏は空蝉の容貌を知る。以前一夜を供にしたとはいえ、暗がりの中でのことで、ちゃんと顔も見ていないのだ。当時の夜というのは、ほんとうに真っ暗だったことがわかる。実はこの後、彼は空蝉と間違えて軒端荻を抱いてしまうのだが、それも夜の暗さゆえの展開だ。
さて、碁を打つ二人の女性だが、その対照的な様子が、印象深い。若々しくて、愛嬌があって、華やかな美人 ── こちらが軒端荻だ。
では空蝉はどうだったか。

「目すこしはれたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つればわろきによれる容貌を・・・・」
目ははれぼったく、鼻筋も通っておらず、老けた感じで、はっきり言えば不細工・・・・。
これでは、誰が見たって、軒端荻のほうがいいではないか。もちろん光源氏は、彼女もなかなかいいなと思ったりもするが、 「落ち着きがない」 とか 「いくら暑いからといって、胸もあらわにくつろぐのは、いかがなものか」 とか、難癖をつけている。ぴちぴちギャルが、おっぱいを出しているというのに、軍配は空蝉に上がるのだ。
ポイントは、身のこなし、碁石を置くときに、腕があらわにならぬよう気をつけたり、顔を隠したり、口もとを覆ったり、とにかく慎み深い様子が素晴らしいという。そんなものだろうか。
意地悪く言えば、容貌に自身のない女性にはありがちな仕草だ。光源氏は、募る思いのあまり、あばたも笑窪の状態になっていた ── と言ったら、言い過ぎだろうか。
さきほども記したように、この晩、光源氏は空蝉の寝所へしのびこむのだが、彼の気配を察知した空蝉は、薄衣 (ウスギヌ) を残して逃げてしまう。そして、隣に寝ていた軒端荻が、暗闇のなかで光源氏に抱かれてしまうのだ。
さすがに寄り添ったところで源氏は気づくが、ここまで来て引き返すわけにもいかず、まああの可愛い女性ならいいか、と、適当に辻褄をあわせて口説いてしまう。こういう行動は空蝉にも軒端荻にも失礼というものだ。女性としてはムッとするところだが、なぜか軒端荻という人は、ここでも空蝉の引き立て役になってしまった。
男をまだ知らぬわりには、ものわかりがいい。源氏が口説けば、その気になって、疑いもしない。その態度は、空蝉とは正反対だ。ことごとくタイプの違う女性を抱くことで、ますます彼女への思いが募ってしまうとは、皮肉な話である。
やすやすと手に入るギャルよりも、慎み深い人妻に、光源氏は心を奪われた。大きな理由の一つは、 「逃した魚は大きい」 とか 「隣の芝生は青い」 とかに共通する真理で、自分の意のままにならぬ女性ほど、素晴らしく思えて、執着してしまうということだろう。
二十代のころの私は、源氏がこれほどまでに空蝉に執着するわけは、この一点に尽きると思っていた。もし空蝉が、嬉々として彼を受け入れたなら、きっとすぐに飽きられてしまうはずだ。そしてそのことを見通している空蝉は、実に頭にいい女性だと感じた。彼を受け入れたいけれど、受け入れた瞬間から、この恋愛は終わりへと向かう。彼の今のテンションを保つ最善の方法は、自分が逃げること、あるいは消えること。そうすれば、彼の中に存在しているであろう私の幻は、永遠に残るのだ・・・・・。
こう書くと、ずいぶん冷静で、計算の行き届いた女のように見える。が、それは結果として選んだ道ということであって、本質は、とても地味で、傷つきたくない女性だったのだと思う。
ところで、三十代になって読み返してみると、光源氏のこの執念は、単に 「手に入れられないから燃える」 という恋愛真理のからくりだけでもないように思われてきた。空蝉のどんどんひいてゆく態度が、彼をあおったことは確かだ。が、その性質そのものに、積極的に魅力を感じていた光源氏を、このごろは感じるようになった。
『愛する源氏物語』 著:俵 万智 発行所:文芸春秋 ヨ リ