〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/20 (土) 高橋 是清

日本は無謀な戦争を始めてしまった。
その日、明治三十七年二月二十四日。
アメルカへ向かって出航したサイベリア号の船上で金子堅太郎は途方にくれていた。
自分はこれから特使として、アメリカ合衆国第二十六代大統領セオドア・ルーズベルトのもとへ戦争終結の仲介を依頼に行く。それも自分が留学時代にルーズベルトと同窓だったということだけを頼りにしてである。
追い込まれたとはいえ戦いを仕掛けたのは日本なのだ。三週間前に断交、そして宣戦布告。
それ以前に仁川ではロシア艦隊を攻撃して日本海軍は本格的に戦闘行動を起こしている。
こんなむしのいい話がはたして通用するものなのかと、金子は自問自答を繰り返す。
こんな無謀な交渉を引き受けるんじゃあなかったと、溜息に終始してしまうのだ。
しかし金子は先ほどから同じ甲板で夜空を見つめている男が気になって仕方がない。
高橋是清。彼の任務は自分以上に不可能に近い。日露戦争の戦費を調達するのが高橋の使命だ。日本は戦争をやる金もないまま戦争を始めてしまった。
高橋の任務の困難を思うと、自分のこれkらの困難がより現実味を帯びてくるのだが、金子には不思議と高橋の後姿に余裕さえ感じてしまうのだった。
船は昼夜を走りアメリカ合衆国へ向かう。

運のいい男の話である。
東郷平八郎の話ではない。ダルマ蔵相と言われた高橋是清の話である。
高橋是清は 「自分は運がいい尾とかだ」 と他人にも自分にも言って、言い聞かせていた風変わりな男だった。
かといって他人から見れば、この男が運がいいのか悪いのかさっぱり分らない。この時点では日銀副総裁の職にあるが、十数年前の彼の境遇を見れば、誰も彼を運のいい男などと思いはしないだろう。
是清は安政元年に幕府御用絵師の子に生まれ、その後、江戸詰めの仙台藩下級武士・高橋是忠の養子に出される。
是清は人見知りしない質というか多分その頃は自我が目覚めていなかったのではないかと思うのだが、ある日、仙台公の奥方と遭遇する。ニコニコした是清がこの藩主夫人の膝にちょこんと座ってしまった。奥方は是清を気に入り屋敷に遊びにおいでと言ってくれた。
これが近所の評判になった。あの子は運のいい子だと。
たったこれだけのことを是清は 「自分は運がいい男だ」 という裏付けにしてしまった。
ここに天下無敵の楽天家が誕生する。
是清は十二歳で横浜の英国人の下でボーイをしながら英語を学んだ。
その後、仙台藩の留学生として米国留学。
ところが騙されて奴隷に売られてしまう。
何とか救われて帰国すると何学 (現東大) の英語教師の助手に落ち着くのだが、友人から二百五十両の借金を押し付けられてしまう。
それが原因で南校にいられなくなった是清は売れっ子の芸者の家へ居候として転がり込むと、三味線持ちに身を落とす。
それから奮起して唐津で英語学校の運営に成果を上げると、農商務省にスカウトされる。
しかし、というかまたもやペルーの銀山事業の詐欺に引っかかり無一文になってしまう。
是清の浮き沈みの烈しい半生を駆け足でなぞってみたが、いかがだろう。まさに、七転び八起きである。
「ダルマ」 の渾名はその風貌もそうだが、彼のこれまでのジェットコースター人生に由来している。
この男のどこが運がいいのだろう。
しかし、是清はいかなる苦境に陥っても常に 「自分の運の良さ」 を信じて疑わなかったようだ。また、どんなに貧窮しても食うに困ったから助けてくれと人に頼んだことは一度たりともなかったと語っている。
「いかなる場合でも、何か食うだけの仕事は必ず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら衣食は足りるのだ」 と。
高橋是清という人物は只者ではない。
この度量を見込んだ川田小一郎日銀総裁に拾われて、是清は四十五歳で日銀副総裁に就任する。

一億円 (当時) も公債調達が成功しなければ日本はロシアと戦争はできない。それなのに戦争はもう始まっているのだ。とにかく、是清」はアメリカに渡った。しかし、埒があかない。
見切りをつけてロンドンに渡るが、結果は絶望的だった。同盟国であるイギリス人でさえも、日本の勝利など信じる者は皆無だった。
開戦前の日本の英貨公債は四分の一も下落してしまう。それでもめげず是清は毎日銀行家のもとへ通った。金利も4%から6%に引き上げ、関税収入を抵当に入れるとした。
今回の戦争の日露両国のスタンスの違い。そして、局外中立の立場である英国が日本の公債を引き受けても決してそれの違反しないこと。
具体的な例をあげて説明する是清の熱意と説得力が少しずつ効果を生んでいく。そして、ようやく一千ポンドの公債引き受けまでに漕ぎ着けるのだった。
しかし、是清には一歩も譲れない条件があった。それは英国側から関税管理人を派遣するというものだ。
日本は独立国である。植民地と同列に扱われることは絶対に認められない。それは不平等条約をなんとか改正させたい小村寿太郎の思いと同じである。日本の今回のロシアとの戦争もそれが根本としてあるのだ。海軍が必死に国際法を厳守する姿勢も同じである。
是清は必死に説得する。
「日本政府は国内外で元金利払い共に怠ったことは一度もない。他の国と一緒にしてもらっては困る」
是清の強い主張に英国側はこの条件を諦めたのである。
これでようやく目標の半分は達成できたのだが、未だ半分が残っている。
そんな是清に 「幸運」 が近づいてくる。
ヤコブ・シフ。アメリカのユダヤ人金融家でニューヨークのクーン・ロエブ商会代表である。
なんとシフは残り半分を引き受けるという。是清は我が耳を疑った。英国の銀行を取りまとめて、ようやく一千ポンドの公債を引き受けさせたが、目の前の男がそれと同額の公債を引き受けるというのである。
その理由をシフはこう続ける。 「ロシアはユダヤ人を迫害している」
この頃のヨーロッパ各国の都市には必ずといっていいほどゲットー (ユダヤ人の居住地) が存在していて、その迫害は苛酷であった。比較的受け入れに寛容だったハプスブルグ家が統治するオーストリアもその後ナチスドイツのユダヤ人迫害問題に発展することになるが、それは後の話である。
そのヨーロッパで、ロシアのユダヤ人迫害はもっとも苛烈だった。シフは全米ユダヤ人協会の会長として、日露戦争がロシアのユダヤ人解放、帝政ロシアを転覆させる革命の切っ掛けになると考えていた。
「できれば日本に勝ってほしい。そうすればロシアで革命が起きる」
シフの悲願はそこにあった。奴隷に売られた経験を持つ是清には欧米の国のあり方をふまえて十分理解できるものだった。
かくして、是清の仕事は達成された。

司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 は楽天家たちのドラマである。
明治という時代が生んだこの楽天家達の無我夢中の奔走の姿に私たちは感動を隠せない。しかるに、今日の日本人はどうだろう。
たしかに 「明治」 は遠くなってしまった。そして、楽天家であることは必ずしも評価されるものではなくなっている。
時代の環境や状況も違うのだろう。しかし、人間の本質はそう変わるものではない。
この楽天家たちは 「諦め」 という言葉を持ち合わせていないという共通点がある。
常に 「なんとかなるだろう」 と歩き出す。その一人である高橋是清も 「俺は運がいい。運がいい」 と念仏でも唱えるように歩き続けたのだろう。この公債引き受けには多くの人間が奔走したが、是清以外の誰もその現実を打ち破ることは出来なかった。
楽天家は現実を相手にして時に無謀とも思われる行動をとり、有識者や現実主義者といわれる人間から笑われるものだが、時代はそのような傍観者や挫折者がつくるものではない。また、 「幸運」 とは楽天家たちのもとに、その試練と引き換えに訪れるものなのかもしれない。
司馬は 『坂の上の雲』 のあとがきに 「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前のみ見つめながら歩く。登っていく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上っていくだろう」 と記している。
是清の奔走によって英国とアメリカで売り出された日本債はこの直後、黒木第一軍の鴨緑江の大勝利によって爆発的に売れていくのである。
第一回から数えること四回の公募募集を成功させ、その合計は九億円以上に上った。
是清は戦況を睨みながら発行運営させ、遂に市場を混乱させることはなかった。
彼の仕事は続く。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ