〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/21 (日) 鈴木 貫太郎

その日、五月二十七日の夕刻、駆逐艦 「朝霧」 の艦上で 「俺は運のいい男だ」 と大声で言い放つ男がいた。高橋是清ではない。
その男、鈴木貫太郎がさらに続ける。
「だから、俺について来れば間違いない。どんな危険な時でも心配するな。俺は、おまえ達を死なせる下手な戦はしないから、安心しろ」
と、宣言するのだった。
通称 「鬼貫太郎」 と言われた海軍の名物男は、 「朝霧」 以下 「村雨」 「朝潮」 「白雲」 の駆逐艦を率いる第四駆逐隊隊長 (司令) で、この日、二度目の水雷攻撃に就こうとしていた。
第一回目は午後四時頃に傷だらけのロシア艦隊旗艦 「スワロフ」 に数百メートルmで接近して命中弾を浴びせている。 「スワロフ」 はその場で沈没こそしなかったが、事実上のトドメを刺されたもので、重傷を負った司令長官ロジェストウェンスキー以下の生存する幕僚達は、駆逐艦 「ブィヌイ」 に乗り換えてしまう。
日が暮れて、水雷攻撃命令が下されると、鈴木第四駆逐隊は戦艦 「ナワリン」 に前方からの 「反航襲撃」 で命中弾を浴びせ、五分後に沈没させた。戦艦 「シソイ・ウェリーキー」 へも命中させたが、その場では沈まなかったという。
この日の鈴木駆逐隊の活躍は突出したもので、攻撃終了後に秋山真之から一隻分の戦果を他の隊にお裾分けしてくれと頼まれている。
しかし、この夜の水雷攻撃は全体としては低調で効果は上がらなかった。各隊の連携不備から味方同士の衝突もあり、三隻の水雷艇が沈没したしまう。これが日本海海戦に於ける日本側の実質的な被害となる。

鈴木貫太郎は泉州 (大阪) の久世家の代官の子として生まれた。久世家は千葉関宿に五万八千石を領していたが、その飛地一万石が泉州にあった。貫太郎の父・由哲は人格者で領民にも慕われていた。貫太郎自身も生涯、この父親を愛した。
幼年の頃の貫太郎は 「泣き貫」 といわれ、大きな声でよく泣く子であったという。母の姿が見えないと泣くのである。その理由は母が叱る時 「そんなに泣くと川崎 (栃木足利の母の里) に帰ってしまうよ」 と言った言葉が強烈に貫太郎の脳裡に刻み込まれたことによるという。
また、貫太郎が 「俺は運がいい」 というのは幼い頃から数えて、何度も死にかかっては九死に一生を得ていることに由来している。
三歳の頃に暴れ馬の足下に転げ込んだのを皮切りに、七、八の頃には溺死しそうになっている。海軍時代も座礁した艦船の移動作業中の事故や日露戦争中には駆逐艦 「不知火」 で一酸化炭素中毒など数え切れない。
後年、二・二六事件で至近距離から四発の銃弾を受けて奇跡的に一命を取り止めた事実も、運の強さを証明しているだろう。
年号が明治に変わると貫太郎の父は群馬県庁の役人となり、一家は前橋に移り住む。
父・由哲は貫太郎を医師にしたかったようだが、貫太郎は海軍を志す。その理由は 「海軍に入れば官費で外国へ行ける」 という単純気楽なものだった。
貫太郎は第十四期生として海軍兵学校に入るが、当時は 「薩の海軍」 とあって関東出身者は貫太郎だけだったと言う。同期には佐藤鉄太郎、小笠原長生がいる。

卒業後、少尉候補生として航海実習後の明治二十二年に少尉に任官すると、砲艦 「高雄」 に乗艦する。この時の艦長が山本権兵衛であった。権兵衛は身長180センチを超える巨漢の貫太郎をひとしお可愛がった。
この頃すでに貫太郎は水雷戦術に興味を示している。当時の水雷は新兵器ではあったが、いまだ海のものとも山のものともつかないものだった。お気に入りの貫太郎が自分の手元から離れてしまうことに権兵衛は不満だったという。
「なぜ、水雷を志願する。理由に合点がいかなければ取り次がんぞ」 と権兵衛から厳しく睨みつけられたという。貫太郎の志を知った権兵衛は納得すると 「ならば、よかろう」 と言って許可したという。後に貫太郎に海軍大学への進学を勧めたのも権兵衛で 「水雷術を勉強しているのならば、大いに研究を重ねよ」 と激励している。
鈴木貫太郎は日露開戦当初は装甲巡洋艦 「春日」 の副長を務めていた。黄海海戦の水雷夜襲攻撃の失敗からの人事刷新で駆逐艦隊司令に起用されている。というのも貫太郎が海軍省の軍事課長だった頃、軍司令部から水雷駛走到達距離を千メートルから三千メートルに延ばそうという提案がなされた。それに猛反対したのが貫太郎なのである。
これは当時、世界的な水雷攻撃の権威とされたロシアのマカロフ提督 (旅順港で戦死) の理論がもとになっているのだが、貫太郎はそれを机上の空論として、海軍大学の教官時代から 「水雷攻撃とは敵に抱きついて、短刀で刺し違えるもの」 という持論を持っていた。黄海海戦で貫太郎の持論が証明されたのだ。
また、日露開戦直前にドイツ留学中の貫太郎は極秘命令を受けてイタリアのジェノバに赴任する。貫太郎以外にも欧州赴任の海軍軍人が呼び出されていた。アルゼンチンがイタリアに発注した装甲巡洋艦二隻を日本は買い受けた。 「日進」 「春日」 である。これを日本国内に運ぶのが貫太郎達の使命だった。 「春日」 の指揮を執ることになった貫太郎はロシア艦隊を振り切って、 「日進」 を指揮する大竹大佐と共に明治三十七年の二月二十七日に到着する。航海中に日露戦争は開始されていたのである。
この 「日進」 「春日」 両巡洋艦は機雷事故で沈没する戦艦 「初瀬」 「八島」 の代わりに、主力第一艦隊として戦っているのである。

戦後、貫太郎は海軍次官、連合艦隊司令長官などを歴任した。次官時代には八代六郎海相を助け、シーメンス事件の後始末に奔走する。ここでは断腸の思いで恩師山本権兵衛を処分している。
昭和四年に強く乞われて侍従長となる。これは同時に海軍から去らねばならないことで、予備役編入に貫太郎は寂しさを隠せなかったという。
その後、軍部の暴走には毅然とした態度を崩さなかった。そのために二・二六事件で襲われるがタカ夫人の機転で九死に一生を得る。
因みに、タカ夫人とは前妻トヨ夫人が病死した後に再婚したもので、前妻のトヨ夫人は出羽重遠夫人と姉妹である。
日本が太平洋戦争で敗れ、終戦を迎えるとき、鈴木貫太郎は宰相として登場する。

貫太郎達が水雷攻撃の真っ最中の時、東郷主力艦隊は夜を徹して北上していた。敗走する敵艦隊の退路を断つためである。
翌朝の午前五時頃、第五戦隊から敵艦発見の報告が入った。
第一、第二戦隊はロシア艦隊を急襲する。第四、第六戦隊も加わり、全二十八隻で包囲攻撃は午前十時過ぎから始まった。しかし、同時にロジェストウェンスキー司令長官なら指揮権を渡されたネボガトフ少将は降伏を決意する。これに他のロシア艦船も従った。
同じ頃、駆逐艦 「ベドウィ」 が駆逐艦 「漣」 に拿捕される。 「ベドウィ」 には重傷のロジェストウェンスキー司令長官以下バルッチク艦隊幕僚達が乗っていた。
日本海海戦は終った。遥かヨーロッパからの大航海を経て、この極東の海域を目指した三十八隻の大艦隊は十九隻が撃沈され、六隻が捕獲されてしまう。ロシア本国に帰り着いたのは特務艦一隻、目的地のウラジオストックにたどり着いたのは巡洋艦一隻と駆逐艦二隻だけだった。その他の艦船は第三国で武装解除された。
秋山真之が考案した 「七段構え」 の遊撃計画は敵艦発見が早朝だったことから二段目から始まり、四段目で敵艦隊を殲滅した。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ