〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/28 (日) 死 闘 D

○三笠の東郷が、この日の昼間戦闘の終了を命じたのは、午後七時十分である。
三笠が先ず砲撃を止めた。
つづく各戦艦がつぎつぎに射撃を止め、同二十分、予定通り夜戦配備に移るべく艦隊を北方に変針せしめたが、この変針の直前、富士が放った12インチ砲弾が6千メートルを飛んで戦艦ボロジノに命中し、汽罐が爆発し、つづいて火薬庫に火がまわりついに大爆発を起こし、ほとんど一瞬で沈んでしまった。
すでにボノジノはこの時期までに艦内の将校はほとんど戦死して指揮者もいなくなっていた。この艦は文字通りの轟沈であったため生者も死者もことごとく艦とともに沈み、その沈没地域で日本の駆逐艦が救い上げた浮遊者は水兵ただ一人であった。
さらにこの日、ずっと火災と左舷傾斜にもだえつづけていた戦艦アレクサンドル三世も、ボロジノより二十分ばかり前に沈没した。
これによってバルッチク艦隊の決戦兵力であった新式戦艦五関のうち四隻までが沈み、ノビコフ・プリボイの乗っている戦艦アリョールのみがわずかに暮色に紛れて逃れ去ることが出来た。もっともアリョールは二門の小型砲を除き備砲の大部分を破壊され、牙を砕かれた狼同然になっていた。

ネボガドフ少将の率いる旧式戦艦四隻 (第三戦艦戦隊) は幸運にも現場を脱することが出来た。
「ワレニ続航セヨ。針路、北二十三度」
と、ネボガトフは旗艦に信号を上げた。ネボガトフにすれば夜を徹して蒸気をあげ、ウラジオストックに逃げ込むつもりだった。いずれも旧式および小型戦艦で装甲はもろく、速力は遅かったが、神がもし恩恵を与えてくれるとすればウラジオストックへの到着は可能かもしれない。
この五月二十七日の昼間においては神よりも東郷が恩寵を与えてくれた。第三戦艦戦隊は旧式であるが為に東郷の主力はこれを半ば黙殺し、第一、第二の戦艦群ばかりに攻撃を集中したのである。
東郷は、午後七時二十分、この日ずっと立ちっぱなしていた艦橋からはじめて靴の底を離した。
真之も動いた。。
加藤も動き、疲れの浮き出た横顔をみせて左舷の沖をちょっと見、やがて東郷を先導するようにして艦橋を降りた。
海上はもはや海戦が不可能までに暮色が濃くなりはじめていた。三笠はなおも激しく波を切っており、二番艦の白波が暮色の中に見えた。三番艦は艦影も見えなかった。針路は北をさしている。
海戦は、真之のいう、
「七段構え」 の第一段目を終了した。
第二段目は夜襲である。夜襲は五十余隻の駆逐艦・水雷艇の受け持ちであった。彼らは夜明まで一睡もしないだろう。
夜が明ければそれらの小艦艇は引っ込み、ふたたび主力戦隊が舞台に出て第二日目の決戦を行う。その為に東郷の主力艦隊は今夜高速力でウラジヲストック方向に走り、敵の残存艦隊の前途を扼していまわねばならないのである。それが、第三段目である。
(第三段目で終りそうだな)
真之は艦橋を降りながらそう思った。

三笠に乗り組んでいる鈴木重道軍医監 (少将) は、下甲板後部居住区に充満している負傷者の手当てに忙殺されていた。
この日の死傷者は三笠が旗艦だっただけに他の艦に比べて圧倒的に多く、死傷百十一人にのぼった。ついで殿艦の日進が多く死傷九十六にんである。
鈴木が後年語ったところによると、彼が治療している所へ、ちょうど戦闘を終えた東郷が監橋から降りてきて下甲板後部居住区を通りかかった。左右に負傷者がびっしり横たわり、一人がやっと通れるくらいの通路があけられている。東郷は、長官室へ戻る途中、この辺りへ立ち寄ったのである。驚嘆すべきことだがこの人物の表情は、戦闘中も、いま左右の負傷者をかき分けるようにして通っているときも、少しも変わらなかった。
一人の負傷者のそばにしゃがんでいた鈴木が立ち上がって、
「だいぶ怪我人ができました」
というと、東郷はやっと立ち止まり、
「もっとできるつもりだった」
と、言った。鈴木に言っているのだか自分に言い聞かせているのだか、どちらでも取れる呟き声であった。
東郷の実感であったであろう。この日の戦法では三笠に敵の主砲の砲弾が集中する。彼自身も監橋で死ぬつもりで立ち尽くしていたのだし、最悪の場合は三笠もろとも沈むであろう覚悟でいた。
“非常な決意を持っておられたのだという事をこの時初めて感じた”
と、鈴木は語っている。
東郷は長官室に入ると、緑茶を一杯飲んだ。これが、彼が途方もない海戦をやってのけたあとの唯一の儀式だった。
真之は幕僚室に入って、戦闘概報をまとめはじめた。他の若い参謀たちは東京へ送る電文の起草にとりかかった。
参謀長の加藤は、海図を見下ろした。室内は銀行の店内であるかのように静かで、どの男の動きも事務的だった。たれも大声をあげず、また戦果についての乱雑な感想を述べあったりもしなかった。たれもが疲れきっていた。真之などはまっさきに足を投げ出してソファに寝転がりそうな男だったのだが、それが机に向かって鉛筆を動かしつづけていた。あれだけの海戦が、まるで白昼夢であったかのようであり、たれの心にもどういう感動も与えていないようであった。
理由は、彼らの仕事がまだ緒についたばかりであったからであろう。あの海戦では確かに五隻の恐るべき戦艦のうち四隻までは沈めた。群小の艦の何隻かは沈むか、沈んだも同然になっているかも知れないが、詳細はまだわからなかった。
敵は四十隻あまりいたが、それらが艦隊の形をなさないまでに混乱している事だけは確かである。それらが、広大な日本海のほうぼうに散りつつあるであろう。それらを一艦々々捕捉してゆくのは今夜の水雷攻撃の成否にかかっており、さらに明日の第二日目の決戦にかかっていた。

参謀長の加藤友三郎は、
(妙なやつだ)
と、真之の挙動を見て、にがにがしく思わざるを得なかった。
真之のやることは、どう見ても軍人らしくなかった。第一、戦闘終了後に加藤とひとことも口をきいていない。机に向かって何か書きつづけているのはいいとしても、従兵が食事を運んでくると、食器類を書類の脇に引き寄せ、物を食いながら筆を動かした。
やがて仕事を終えると、加藤に挨拶一つせず、ぷいと自分の部屋へ引っ込んだ。
真息は仰臥した。相変わらず靴を履いたままであった。疲れきっていたが、神経が変に昂ぶって、眠れそうになかった。彼はすでにこの時、策戦家でも軍人でもなくなっていたといえるかもしれない。
(この戦が終れば)
と、その事を考え、それを考えることで自分の神経の昂ぶりを鎮めようとしていた。
この状態では到底明日再び監橋に立つというような自信はなかった。彼がこの時懸命に自分に言い聞かせていたのは、この戦争が終れば軍人をやめるということだった。
実は真之は監橋から降りた後、艦内を一巡してしまったのである。
いたるところに弾痕があり、あの軽やかな濃灰色で装われた艦体は砲火と爆煙にさらされたためにひどく薄汚い姿になっていた。
負傷者が充満している上甲板は、真之が子供の頃に母親から聞かされておびえた地獄の光景そのままだった。どの負傷者も大きな砲弾の弾片でやられているために負傷というよりこわれもので、ある者は両脚をもぎ取られ、ある者は腕が付け根から無く、ある者は背を大きく割られていた。どの人間も、母親のお貞が彼をおびえさせた地獄の亡者の形容よりすさまじかった。
彼は、昼間、監橋上から見た敵のオスラービアが、艦体をことごとく炎にしてのた打ち回っていた姿の凄さを同時に思い出した。
真之はあの光景を見たとき、このことばかりは誰にも言えないことであったが、体中の骨が慄えだしたような衝撃を覚えた。
(どうせ、やめる。坊主になる)
と、自ら懸命に言い聞かせ、これを呪文のように唱え続けることによって、その異常な感情をかろうじてなだめようとした。
真之は自分が軍人に向かない男だという事を、この夜、ベッドの上で泣きたいような思いで思った。兄の好古は今満州の奉天附近にいるはずであった。その好古へのうらみが、鉄の壁に遮られた暗く狭い空間の中で灯ったり消えたりした。
秋山真之という、日本海軍がその後々まで天才という賞賛を送りつづけた男には、いわばそういうひ脾弱さがあった。
彼は戦後、実際に僧になるつもりで行動を開始した。しかし小笠原長生ら彼の友人が懸命に押しとどめたためようやく思い留まりはしたものの、結局、戦後に出生した長男の大 (ヒトシ) を僧にすべくしつっこく教育し、真之が大正七年に没する時この長男に固くその事を遺言した。
大は成人後、無宗派の僧としてすごした。この海戦による被害者は敵味方の死傷者だけでなく、真之自身もそうであったし、まだ未生のその長男の生活もこの日から出発してといえる。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ