〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/27 (土) 死 闘 C

○思い合わせてみると、ロジェストウェンスキーは、世界史がもったこの最大規模の海戦において一方の主将として指揮らしい指揮を殆どすることなく、また東郷の為にその出演時間さえ僅かしか与えられず、今は運搬されるだけの物体になってしまった。
運搬は難事業だった。壊れた砲塔扉からこの大男が運び出された時、作業に従事した人々はすでにへとへとになった。
この作業指揮をとった士官は、艦長ではなかった。あの快活だった艦長は既に死骸になっていた。副長も居らず、他に二、三の大尉がそのあたりにうずまっていたが、負傷のために動けないのか、それとも艦を捨てて脱出しようとする司令官や幕僚達に好意を持たなかったのか、指揮を取ろうともしなかった。
率先してこの指揮にあたったのは少年のように幼い顔をした少尉候補生のクルセリだった。
フォン・クルセリという茶目で敏捷でちょっと頭の抜けたところのある青年は、この旗艦の全ての士官のマスコットのような存在だった。彼は子供の時からの商船乗りで、海軍における正規の士官養成コースを経ておらず、その為に平素あまり役立っていなかった。ところが戦闘が惨烈になるにつれて彼は信じられぬほどに沈着になり、艦内のあちこちを燕のように飛び回っては消化の指揮をしたりした。
セミョーノフ中佐はあまり人好きのする男でなかったが、クルセリはこの男によくなつき、絶えず冗談を言い、茶目を演じた。セミョーノフが艦が目茶目茶にやられている真っ最中に自分の私室の様子を見に行こうとしたことがある。途中、クルセリに出遭った。
「ぜひご案内しましょう」
と笑いながら、地理感覚を狂わせるほどに破壊された場所を通り抜けて案内に立ち、部屋のそばまで行くと、
「どうぞご休息を」
と、片手をのばした。部屋は一歩も踏み入れられないまでに壊されていた。セミョーノフはこの期になっても茶目を止めないクルセリに腹が立ち、怒鳴りつけて去ろうとすると、クルセリは追っかけてきてセミョーノフの手に葉巻を一本握らせた。
「そいつは旨いですよ」
言い捨てて駆け去ったが、そのクルセリがロジェストウェンスキーの運搬を指揮している。彼は翼のついた天使のように提督の前後左右を飛び跳ねつつ運搬作業を進めてゆくのである。
クルセリは提督を焦げた吊床に寝かせ、吊床ごろ縄で縛った。さらに万一海中に落ちたときの用心の為に筏のようなものを縛着した。
彼はその提督ぐるみの筏を艦の後方まで運び、後部6インチ砲塔前の切断舷という断崖のような形の所まで降ろした。そこで駆逐艦ブイヌイがせりあがって来るのを待った。駆逐艦は小さい。戦艦の右舷舷門辺りまで届くには大波にせりあげてもらうのを待たねばならないのである。
ついに、移した。
生き残りの幕僚 (参謀長、航海長、セミョーノフ中佐など) も移った。
その機会に何人かの士官や兵員も飛び移ったが、しかし八百人以上の乗組員は艦に残った。
もっともその殆どは提督が艦を捨てたことを知らず、火の中か、戦時治療室か持ち場にいた、クルセリも艦を去らなかった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ