〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/27 (土) 死 闘 B

○三笠以下がふたたび出現した。
というのは、ロシア側にとって悪夢との邂逅のようなものであった。
海戦とうのは広い海域の中で艦艇が高速で走り回るもので、しかも互いの認識は眼鏡程度のものに拠っており、いったん敵味方が離れ、水平線上の彼方に没してしまうと容易に遭遇できない。まして視界を遮る濛気がある。しかもロシア側は振り切ってなんとかして逃げようとしている。こういう絶対的な、あるいは相対的な条件下で再び相遭うなど、奇蹟に近かった。
しかもただの遭遇ではなかった。上村の巡洋艦隊が、大浪を艦首で砕きながらロシア側を南から追っかけているのである。そこへ東郷の三笠以下の戦艦戦隊が四方の沖合いから現れた。
ロシア側は挟撃される形になった。
この日本側の光景を燃え上がらせる旗艦スワロフから眺めていたセミョーノフ中佐は、日本の戦術運動が神技という他ないというような感嘆をもって述べている。
しかし出雲の艦橋ににあった佐藤鉄太郎は
「運だった」
と、戦後に、冷静に語っている。
佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、梨羽時起という海軍少将が遊びに来て、
「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」
と、梨羽は彼自身実戦に参加しているくせにそれが不思議でならないようなことを射言った。確かに奇妙すぎた。科学的に探求し得る勝因というのは無数に抽出して組織化することは出来る。しかしそれでもなお不明の部分が大きく残る。なにしろ人類が戦争というものを体験して以来、この戦ほど完璧な勝利を完璧な形で生みあげたものはなく、その後もなかった。
「六分どおり運でしょう」
と、佐藤は言った。梨羽はうなずき、僕もそう思っている、しかしあとの四分は何だろう、と問い重ねた。佐藤は、
「それも運でしょう」
と、言った。梨羽は笑い出して、六分も運、四分も運ならみな運ではないか、というと佐藤は、前の六分は本当の運です、しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、と言った。
佐藤は決して自分の手柄であるとも秋山真之の手柄であるとも言わなかった。真之自身が、 「天佑の連続だった」 と言っているのである。
ただ佐藤はこの説明のつかない 「六分の運」 について海軍大学校の講義で、
「東郷艦長は不思議なほど運のいい人であった。戦いというものは主将を選ぶのが大切である。妙なことを言うようだが、主将がいかに天才でも運の悪い人ではごうにもならない」
と述べたことが残っている。
もしこの海戦において勝利をもたらした無数の人間の中でただ一人の名を挙げよと言えば、この海域にいない山本権兵衛であったであろう。
彼は、舞鶴鎮守府長官という閑職について予備役を待つばかりの境涯にいた東郷を抜擢し、明治帝が驚いてその理由を聞くと、
「東郷は運のいい男ですから」
と、答えた。山本は歴史を決定するものが、佐藤の言う 「四分の運」 のほかに 「六分の運」 がるという機微を、それ自体異様なことだが、知っていたのである。

この海戦は、多分にロジェストウェンスキーにとっていわば劇的な人間表現であると言えたが、しかしいかなる劇作家でも以下のような偶然はそれを設定することをはばかったであろうと思われる程の事態が彼を訪れつつあったのである。
ロ提督が最も嫌っていた巡洋艦の艦長がいた。
ブイヌイのN・Nコロメイツォフというまだ三十八歳の中佐で、艦隊随一と言っていいほどの駆逐艦乗りとされ、彼の海軍知識や技術はそのまま英国海軍に編入されても一流の船乗りとして通用するだろうと言われていた。ただ自分の腕に自信を持っている人物にありがちな倣岸さ (情感に対しての) をもっており、兵員達から最も人気のある艦長の一人でありながらロジェストウェンスキーからは、無能、陣列の紊乱者、勝手者まどと言う言葉でもって罵倒されていた対象であり、あの長い航海中、しばしば信号旗でもって名指しでののしられた。
ロ提督にとってはベドーウィのバラーノフ中佐が善玉であり、コロメイツェフ中佐はそれと対照的な悪玉で、しかも一般の士官や兵員から見れば逆であるという、安っぽい田舎芝居でもこれほどぬけぬけした設定はしにくいと思われるほどんお設定のもとに彼らは存在していた。
コロメイツェフ中佐が指揮している駆逐艦ブイヌイは実によく働いた。働くと言っても、戦闘ではなかった。もともと駆逐艦は敵に肉薄して魚雷をぶっ放す兵器であったが、ロ提督の戦法ではこの兵器をそのようにしては使わず、もっぱら救助用に使ったいた。ブイヌイは乱戦の中での勇敢な救助者としてよく働いた。
ブイヌイは真っ先に沈んだオスラービアに対し、弾雨を冒して接近し、海面に漂う二百四人を救い上げ、わずか350トンという小さな艦に収容した。乗員と被救助者で艦は満員になった。そのあとブイヌイは味方の巡洋艦隊を発見し、その殿艦に追いつくべく走っていたとき、海上に漂っている旗艦スワロフの残骸を発見したのである。もっとも形体こそ残骸だたが、まだ呼吸が残っている証拠に、スワロフは微速ながらも針路を南にとって動いていた。
喜びがスワロフに湧き上がった。
中央6インチ砲の砲塔の廃墟のそばにいたセミョーノフ中佐は、右脚を骨まで砕かれていたが、この喜びをロ提督に伝えるべくカカトで歩行し、やっと右舷中部砲塔にたどりついた。その中に入ると、ロ提督はすわっていた。頭を垂れていた。その様子は人間というよりボロギレのようであった。
セミョーノフは、
「長官、駆逐艦が来ました」
と、抱きつくようにして叫んだ。
ロジェストウェンスキーは、この旗艦からもこの戦場からも逃げ去るつもりであった。しかし単身逃げれば軍法会議その他での批判が強くなるかも知れない。司令部をブイヌイに移すという形をとればよかった。
ロ提督を英雄に仕立てるべき役割だったセニョーノフでさえ、このことにふれざるを得なかった。ロ提督がこの時言った言葉は、
「フィリポゥスキーをつれて来い」
ということだけだった。この大佐は航海参謀で航海参謀さえ連れていれば提督は全艦隊をなおも指揮する意思を持っていたという後の証拠になる。
「提督は名目だけでも全艦隊を指揮しなければならなかった」 とセミョノーフは書いている。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ