〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/27 (土) 死 闘 A

○ところで、東郷の麾下のなかでただ二人だけが、
“スワロフは回頭したのではない。舵機の機能を失ってよろけはじめたにすぎない”
と、認識した者がいた。ただ二人だけではなかったかもしれないが、それを認識し、同時に異常な単独行動を決断した者が二人いる。
第二艦隊の旗艦出雲の艦橋にいた参謀佐藤鉄太郎中佐がその一人であった。佐藤の横に、司令長官の上村彦之丞がいた。この両人である。
佐藤は、
“秋山か佐藤か。” といわれ、海軍内部で早くから戦術の天才と言う評価をうけていた。もし真之がいなければ、連合艦隊の先任参謀の地位にこの佐藤がついていたにちがいなかった。
彼は慶応二年、出羽庄内藩士芳賀家に生まれ、家老の佐藤家を嗣いだ。真之における伊予松山藩もそうであったが、ともに戊辰戦争の時に佐幕派に属し、苦渋をなめた。この当時、海軍は 「薩の海軍」 と言われていたように東郷も上村も戊辰の官軍の薩摩の出身であった。真之と佐藤が、その旧官軍出身者のしたに仕えているというのは取り合わせとしても多少奇妙でもなくもなかった。
佐藤は明治十二年、満十三歳のとき鶴岡から東京まで徒歩旅行を続けて築地の海軍兵学校のジュニア・コースに入った。
彼は剣道家ともいえたかもしれない。尉官時代、かって幕臣の流儀だった心形刀流 (インギョウトウリュウ) を、その宗家の伊庭想太郎から学んだ。伊庭は四谷で文友館という道場を開いていたのである。
伊庭は、はじめ佐藤の体つきを見て、どうも君の様子ではいくら稽古してもたかが知れている、と稽古をさせなかった。
「稽古をしても、頭の叩かれ損のようなものだから、ひとり稽古で極意に達する方法を教えてあげよう」
と、言って、奇妙な方法を教えた。
糸を横に引っ張っておくのである。それを前にして真剣を抜き、振りかぶって力任せに振り下ろす。そのとき、糸を切らずすれすれで白刃を止める。その練習をせよ、と言った。佐藤はその通りにした。
佐藤が少佐になった頃、伊庭は、
「君は参謀館だそうだから、心形刀流の極意を教えておこう」
と、言って、剣の上での実例をいくつか挙げ、
「剣に限らず物事には万策尽きて窮地に追い込まれることがある。その時は瞬息に積極的行動に出よ、無茶でも何でもいい、捨て身の行動に出るのである、これがわが流儀の極意である」
と、言った。
佐藤はこの言葉をよく覚えていた。やがて彼の第二艦隊は第一艦隊の敵情誤認行動によって窮地に陥るのだが、このとき出雲の艦橋で佐藤の脳裡をかすめたのは伊庭が伝えたこの極意であった。
佐藤はとっさに無法に近い積極行動を起こすことによって連合艦隊そのものを、あやうく敵艦隊を取り逃がすところから救い出したのである。
奇妙なことに佐藤のこの時の行動はその後長く海軍部内では秘密になっていた。
佐藤は、旗艦スワロフを注視し続けていた。スワロフが北へ頭を振ったとき、三笠の東郷たちとはちがい、 “舵の故障だ” と、思った。思わず靴のカカトでもって艦橋の床を蹴ったのは、佐藤にすればよほど嬉しかったに違いない。スワロフが意図的に回頭しつつあるのではないという証拠に、その半ば折れたマストに信号旗らしい物が上がっていないのである。
「舵の故障ですな」
と、佐藤は出羽訛の軋むような発音で、横の上村に言った。上村も眼鏡を持って注視しつづけていたのだが、このとき即座に、
「間違いないか」
と、ゆっくり、しかし大声で言った。

スワロフの回頭が舵機の故障によるものだと知った佐藤は肉薄追撃の絶好の戦機とみた。当然東郷はそれをするだろうと思った。ところが、東郷は、
「左八点の一斉回頭」
という、各艦いっせいに左方90度に針路を変えよと命じたのである。
東郷は信号旗を掲げて命じた。三笠が信号を上げると、後続する各艦が順次上げてゆき、後方へ後方へと伝達してゆく。第一戦隊は殿艦の日進で終る。日進の信号を、それに続く第二戦隊の旗艦出雲が掲げる。
出雲の航海参謀は、山本英輔大尉だった。山本は日進の信号どおりに 「左八点の一斉回頭」 という信号をマストに掲げていた。
が、佐藤鉄太郎は気づかなかった。
「旗艦」 が掲げている信号旗は信号旗を降ろした時にその命令どおりの行動が各艦において開始される。山本は、
「佐藤参謀、信号を降ろしていいですか」
と、声をかけた。
この時佐藤は振り向き、信号が上がっていることに初めて気づいた。同時に東郷が命じている第一戦隊に対する信号内容が意外なものであることを知った。しかも前方の第一戦隊はその信号どうりに各艦とも急に艦首を左へまげつつあったのである。
「いかん、おろすな」
と、佐藤は狼狽した。
ということは第二艦隊だけは命令どおりの行動を留保するということになる。留保では、
「かえって第一戦隊を誤解させることになりはしませんか」
と、次席参謀の下村延太郎少佐が言った。佐藤は混乱した。しかしすぐ冷静になり、
「運動旗を一旒あげておけ」
と、命じた。運動旗を掲げるというのは、 “おれについて来い。” ということになる。
が、佐藤は数秒、それ以上の工夫が思いつかなかった。事実思いつける状態でもなかった。
その間も、第二戦隊は従前どおりの針路をまっすぐ進んでいる。その前方で第一戦隊が、各艦ごとくるくると左へ90度回頭している。第二戦隊はその中へ突っ込んでしまうことになる。
事実、わずかながらそのようになった。
軍艦と軍艦とが団子になったように重なり合った。ということは、第一戦隊の射撃を第二戦隊が邪魔することにない、敵から見れば日本の軍艦が重なっているために照準が容易になる。戦闘中の艦隊運動でもっとも警戒すべき悪陣営が出来上がったのである。
佐藤は後悔した。
が、今更どうすることも出来ず、自らの戦術行動で、自らを縛り上げてしまう結果になった。
この時佐藤が思い出したのが、伊庭想太郎から伝授された心形刀流の極意だった。つまり窮地に陥ったとみれば何でもいい、瞬時に、そして積極的行動に出よということであった。

佐藤は上村に体を寄せ、
「長官、こうなれば仕方ありません。面舵をとって、敵の頭を抑えましょう」 と言った。
艦隊を右折せしめるというのは、各艦各個に左一斉回頭をしている第一戦隊との間隙をそれだけ遠くするということになり、第一、第二戦隊が団子になることだけは免れるが、しかしこの装甲巡洋艦戦隊は東郷の戦艦戦隊より前面に出ることになり、海戦は戦艦が主役を為すという常識を破るカタチになる。
右折すれば敵がどんどん近づくというカタチになるから、危険この上なかった。
こちらは、装甲巡洋艦の戦隊に過ぎない。
敵は戦艦の戦隊が前面に出て押し出してきている。巡洋艦がその薄い装甲と弱い攻撃力を持って千間に立ち向かうというのは、陸戦で言えば厚い胸牆に囲まれた要塞に対し、攻撃側が、裸の人員で軽砲を引っぱって近づいて行くようなものであった。
無謀というよりほかなかった。
上村艦隊がせり出してこの無謀の陣形を取ったのは、上村と佐藤の決断と勇敢さということもあったが、もとはといえば三笠の首脳部の錯覚による。戦後、上村も佐藤もついにこの 「錯覚」 について揚言しなかったのは、東郷が世界戦史に類のない完全勝利を得たため、東郷は無謬の名将になったからである。事実、東郷は無謬に近かったが、それをさらに完全な無謬的存在にすることは、上村や佐藤などの礼節であったらしい。

佐藤はのち中将になってから 『大日本海戦史談』 という海戦の歴史を書き、この局面についてふれている。この書物にも、東郷の 「誤認」 ということには触れなかった。ただ、第二戦隊が第一戦隊の通りに 「左八点の一斉回頭」 をやっておれば、
「敵艦隊をして弾道距離外に脱する機会を与えることになったであろう」
と、遠慮気味に書いている。極端に言えばロシア側の大部分は戦場を脱し、ウラジオストックに向かって遁げきることが出来たかも知れない、ということであった。
ついでながら、昭和十年代に、当時新潮社の社員だった八幡良一氏が、隠棲中の佐藤鉄太郎に会った時、たまたまこの 「誤認」 の話が出た。八幡氏がおどろいて、そのことを何かに書いてもよろしゅうございますか、ときくと、佐藤ははげしくてを振って、
「それはいけない、どうしても書きたければ僕が死んでからにしてくれ」
と、言ったという。このくだりは、著者が八幡氏から聴いた。
ついでながら佐藤鉄太郎は昭和十七年三月四日に病死した。
もし、この五月二十七日午後二時五十分すぎの段階で上村と佐藤が出雲の艦橋にいなければ、この海戦はもっと違った結果になっていたに違いない。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ