〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/16 (火) 西郷 従道
山本権兵衛は海軍官房主事の時に藩閥に凝り固まる海軍に大リストラの大鉈を振るったが、その後ろ盾だったのが西郷従道である。
従道は西郷隆盛の弟で、従兄弟大山巌と共に西郷の左右にあって幕末維新に活躍した。
薩英戦争の時は大山と西瓜売り決死隊に参加している。西郷がこの二人を人に紹介するときは、 「大馬鹿者の信吾 (従道) 」 「知恵者の弥介 (巌) 」 だったという。
はたして従道は大馬鹿者か。
軍人から政治家に転身した人物だが、長州の山縣有朋とはまったく違ったタイプのようだ。
明治政府にあって数々の大臣を歴任。渾名の 「成程大臣」 とは、相手の言い分を 「なるほど、なるほど」 と感心して聞き入るところから付いたもの。
その従道も山本から海軍の大リストラ案を提案された時は困ったようだ。しかし、この実行なくしては日本海軍は成り立たないという山本権兵衛の意を 「なるほど」 と納得すると、自らその行動の矢面に立つ。
信頼する部下に全てを任せて、トップは常に責任を取ることを第一とする。陸軍の大山と児玉の関係のように従道は典型的な薩摩型リーダーのあり方を体現した人物である。

薩摩という国は日本の中でも一種独特な国である。地理的にも九州の南端にあり、決して豊かな国ではない。貧しさは強兵を生む一つの要因である。戦国時代の尾張兵の弱さは有名だった。小業が発達した豊かな地域の兵の軟弱さを物語るもので信長の悩みの種であったという。それの比べて家康の三河武士は強く、それ以上に甲州や越後の兵が強かった。これは大将の資質のせいばかりでなく、豊かさに反比例したと考えられている。その点で薩摩は抜群に強かったわけだ。
薩摩の 「臥薪嘗胆」 は江戸幕府の発足にさかのぼる。 「チェストー関ヶ原」 と三百年叫んだ国だ。
薩摩には独特のリーダースタイルがあって、大将たる者は有能な部下を配して、全てをその者に託すというものだ。西郷隆盛もその立場がリーダーとして確立していくと、それの倣った。そして、西郷の左右にあった従道も大山巌もその目撃者であり、実践者となるのである。
従道の軍人時代の台湾征伐での過激な行動姿勢と政治家時代の野放図さの格差はそこにあるようだ。かくして従道は山本権兵衛という有能な部下を見出すと、すべてを丸投げする。ただし、責任は取るし、その部下が動きやすいように根回しや裏方など全面的協力に徹する。これは大変な労力にも思えるのだがいかがだろうか。
また、山本が海軍大臣に就任してからの話であるが、戦艦 「三笠」 を発注する手付け金の捻出に窮してしまう。権兵衛は信頼する従道に相談するのだが、なんと従道は文部省の予算流用という奇計を促すのだ。そして、もしバレたら 「二人で二重橋の前で腹を切って 『三笠』 ができれば本望ではないか」 というのだ。
現在であればロッキード事件以上の大問題になったことであろう。こうして六六艦隊の最後の戦艦 「三笠」 は、連合艦隊の旗艦として誕生する。

大隈重信は従道を 「貧乏徳利」 と評している。何でも引き受ける (収めてしまう) その器の大きさと柔軟性からのものだ。
後に、ある大臣の宴席で明治の英傑で誰が一番大きかったかが話題に上った時に、第一に大山巌の名が上がったが、西郷従道はその五倍大きかったとの意見に皆納得させられたという。
知恵者の盟友・大山巌が意識して務めた 「己を空しくする」 行動とは異なり、大西郷の遺伝子を存分に従道は引き継いでいた。だからこそ、兄・隆盛はこの従道の資質を自分以上に認め、愛した上での 「大馬鹿者」 の称号ではなかったのだろうか。
日露開戦の二年前に他界した西郷従道。彼の存在なくして日本海軍の栄光は語れない。因みに従道は (ジュウドウ) と読むのが正しいという。維新後に太政官に本名 「隆興 (リュウコウ) 」 を登録する際、 「ジュウドウ」 と聞き間違えられ、それを本人も気にせずそのまま通したとか。
宴会での裸踊りが十八番で、大山の再婚パーティーでも当然やった。出席していた帰国女子の津田梅子がショックを受けている。確かに大きな人物であり、魅力的な存在である。
「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ