〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/23 (金) 旅 順 口 D 

○その広瀬武夫が、閉塞船を駆って旧知のマカロフ中将の守る旅順口に行くというのはそれそのものがすでに数奇である。
さらに数奇なことは、マカロフは広瀬ら第二閉塞が何隻で何日にやって来るという、日まで正確に知っていた事であった。
「露探」
と、当時、日本で言われていや言葉がある。ロシアのスパイのことで、東京や佐世保でずい分活躍したらしいが、その実態は戦後もついにわからない。第二閉塞実行のことは、この種の諜報によって旅順に知られていた。旅順にすれば、待ち伏せるだけでよい。
待ち伏せの為の用意を、マカロフは抜かりなくやった。例えば閉塞船が港口に接近する事を防ぐために、逆にロシア側がその航路とおぼしきあたりに汽船を沈めておくことである。マカロフは自ら現場を監督し、ハイラル、ハルビンという二隻の汽船を沈めさせた。さらに機雷も沈めておいた。また、閉塞防御用の駆逐艦を二隊、待機させた。
日本側も前回の経験により、閉塞船の前甲板に各二門ずつ機関砲を備え付けた。これは港口付近で妨害に出てくる敵駆逐艦に対抗するためであった。
根拠地出発は、二月二十四日の予定であったが、この日は水域一体は濃霧に閉ざされ、風雨も激しかったため、延期した。この日、真之は広瀬をその閉塞船の福井丸に訪ねている。
広瀬は 「サルーン」 のストーヴわきに真之を迎えた。
真之はまたをあぶりつつ、
「もし敵砲火が激しすぎれば、さっさと引き返すほうが良いな」
と、前に言ったことをくり返した。
広瀬は、おまえはいつもそれだ、実施部隊というものは策戦家と違い、生還を期しちゃ何も出来ない、成功のカギは唯一つ、どんどん行くというより他はないのだ、と言った。
二十六日午後六時半、閉塞船の四隻は根拠地を出発した。
二十七日午前二時、老鉄山の南方に達するや、千代丸を先頭に単縦陣をつくり、福井丸、弥彦丸米、山丸の順で港口に向かって直進した。
夜霧がやや濃く、月色も霧の為にぼんやりしている。
閉塞には条件がよかった。各艦とも広瀬のいう 「どんどん」 行った。
旅順要塞の探照燈が先頭の千代丸を発見したのは午前三時三十分である。旅順の空と海は閃光と轟音で包まれた。
ロシア側の戦史はいう。
「すでに我々は数日前からこの敵襲を予知していた。このため哨戒艇二隻が、陸上砲台と緊密な連絡を保ちつつ外洋を監視していたが、午前二時十分 (日本側と時間が違う) 砲台の探照燈は、暗い洋上に波を立てて接近してくる船影をとらえた。先頭は、千代丸である。その後に一定に距離を置いて他の三隻が単縦陣で進んで来る。敵は闇中ながら、よくその船の位置を測定し、正確に進行方向を維持してくる。やがてわが砲台および各艦はこれに対し猛烈な砲火を注いだ。しかしあまり敵に大きな損害を与えるに至らないらしく、各船は依然として同一針路を保持しつつ進んで来る」

有馬良橘の一番船は前回と同様、探照燈に当てられ続けて目がくらみ、ふたたび港口が何処にあるかという方向を失った。
港口から見ればやや右へ舵を取りすぎ、黄金山下の海岸に近い水道へ入り、陸上に船首を向けて投錨し、爆沈した。
それを二番船福井丸から見ていた広瀬武夫は、もうそこが港口だと思った。操船しつつその千代丸の左側に出、錨を投じようとした。そのときロシアの駆逐艦が近づき、魚雷を発射した。それが船首に命中し、大爆発を起こして船底が裂け、たちまち浸水し、沈没しはじめた。
が、脱出作業は十分間に合った。予定のようにボートが下ろされた。作業終了とともに全員が後甲板に集合することになっていた。みな集合した。同行した大機関士粟田富太郎の後日譚では、広瀬が各現場を見届けて最も後からやって来て、例の快活な、ややかん走った声で、
「オイオイ、みな集まったか」
と言い、番号をとなえてみろ、と言った。
すでに短艇のなかにも人がいる。そこから番号をとなえると、杉野上等兵曹だけいなかった。杉野は前甲板で働いていたはずだった。
広瀬は甲板上にいた兵員とともに上甲板を駆け回り、杉野、杉野、と呼ばわってまわったが大小の砲弾がまわりに炸裂し、探照燈がそのあたりを照らし、その凄惨さはこの世のものではない。
みな後甲板に戻ってきた。ふたたび、探した。広瀬が一人々々に聞いてみると、誰も作業中杉野の姿を見た者がない。ただ一人飯牟礼仲之進という一等兵曹が、
「杉野上等兵曹はおそらく敵の水雷 (魚雷) が命中した時、舷外に飛ばされたのではないでしょうか」
と、言った。が、それは想像である。
広瀬は、三度目の捜索に出た。一人前甲板の方に駆けてゆき、杉野、すぎの、と呼ばわってゆく。その声が、粟田大機関士の耳に遠ざかって行ってひどく心細かった、という。
広瀬は、なかなか戻ってこなかった。この時船底まで探したらしい。
やっと戻って来たとき、足もとに水が浸ってきた。沈没です、と粟田がたまりかねて言った。
広瀬はやむなく杉野を諦め、爆破用意を命じ、全員ボートに移った。爆破用の電纜は長くのばしてあって、ボートまで取り込んである。ボートは本船から離れ、四、五艇身も離れた頃、広瀬自らがスイッチを押した。船の後部がみごと爆発した。
あとはボートを漕ぎつづけるのみである。広瀬はオーバーの上に引き廻しを羽織り、ボートの右舷最後部に坐って、ともすれば恐怖で体が固くなろうとする隊員を励まし、
「みな、おれの顔を見ておれ、見ながら漕ぐんだ」
と、言ったりした。探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。
そのとき、広瀬が消えた。巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごと持っていってしまったらしい。その隣に坐って舵を取っていた飯牟礼すら気づかなかったほどであった。
広瀬の死はその後露都に伝わり、彼の恋人だったアリアズナは、伯爵海軍少将の娘でありながら、その未来の夫である日本海軍の士官の為に喪装をつけ、喪に服した。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ