〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/23 (金) 旅 順 口 C 

○この閉塞は、第一次閉塞といわれる。結果としては上手く行かなかった。
月が、午前零時半ごろに落ち、海上が暗くなった。月光にかわって、敵の探照燈が輝き始めた。黄金山、城頭山、白銀山などの砲台からの探照燈が港口外の洋上を掃きつづけ、ちりくずの接近も許さない。
ステバーノフの 「旅順港」 によると、
「海上を掃いていた探照燈の光芒のむれが、突如一ヶ所に集まると、そこに一隻の大きな汽船を発見した。汽船は、老鉄山下の海岸沿いに港口へ忍び寄りつつある」
ということになる。
この汽船が、総指揮官有馬良橘が座乗している天津丸であった。
幾条もの探照燈が天津丸を捉え続け、そのいけにえに対して、あらゆる砲台から砲弾が送られた。
天津丸の船上は砲弾のはじける音や、命中弾の爆発で地獄のようになった。さらに探照燈が操舵員の目をくらませ、どこへ船をやったらよいかわからない。
このため港口には達する事が出来ず、それよりはるか手前の老鉄山の下の岩礁へ船首を乗り上げてしまい、擱座した。有馬としてはやむを得ない。無意味ではあったが、ここで船を爆破する事にした。
そこへ後続の閉塞船がやって来る。
「右へ、右へ」
と、有馬は船上から後続船に呼びかけた。広瀬の報国丸は面舵をとり、つづく仁川丸も面舵をとった。
要塞砲はうなり、この報国、仁川の両船に砲弾を集中した。広瀬の報国丸が、唯一の成功例として港口の燈台下まで進み、そこで擱座した。しかしとても塞ぐに至らない。
広瀬に続いた仁川丸は、右へ回りすぎ、しばらく方向を失った。やがて港口よりやや離れた所で自沈した。
これらに続いた武陽丸は、大尉正木義太が指揮をしている。弾雨の中をあえぎつつ進んでいたが、眼前に船を見た。擱座していた。先頭船の天津丸であった。
「ここが港口か」
と、錯覚した。やがてそうではなく天津丸が前進中に擱座したものとわかり、その横を通り過ぎてゆくうち、最後尾の船である武州丸がふらふらと出て来た。武州丸は敵弾の為に舵機を砕かれており、航行の自由を失っていた。しかし正木大尉は僚船のそういう様子はわからない。
僚船武州丸はこれ以上の操船が不可能であったため、西口付近で自爆してしまった。
武陽丸の正木大尉は、
「ああ、あそこが港口か」
と、錯覚した。この錯覚以外は、正木大尉の処置はきわめて沈着だった。船を進めて僚船武州丸の横へ行き、相並び、停船したのち、キングストン・バルブを開いて自沈した。
「武装なき汽船五隻打ち揃って敵港閉塞に赴くが如きは空前の壮挙にして、その効果たる、もとより物質のみに存するにあらず」
と、祝電を東郷に送ったのは、海軍軍令部長の伊東裕亨であった。

第一回閉塞は失敗に終ったが、兵員の損害は、意外なほどに軽微であった。東郷はこのことに気をよくした。
「さらに続けたいと思います」
という島村参謀長を通しての有馬良橘の願いを、彼は容れた。
大本営も、このことに積極的になった。早速閉塞船の準備をした。汽船はくず船だから、金はあまりかからない。そこへ石を詰めたりセメントを入れたり爆装したりするほうにわりあい金がかかった。この程度の事でも、日本の戦時財政では、あまり小さくない負担だった。
第二回は、四隻選ばれた。
指揮官は、前回と同じである。下士官以下は一度行った者は二度とやらせないというのが本則で、将校は何度でも行く。総指揮官は有馬良橘。それに広瀬武夫、斉藤七五朗、正木義太である。
「敵も、今度は準備するだろう」
と、真之は、三笠に訪ねて来た広瀬武夫に言った。第一回のような、いわば敵の不意を突くというようなことにはなるまい。
「そのうえ、そろそろマカロフ中将が旅順に着任している筈だ。旅順の士気は一変するに違いない」
真之は、言った。
スレパン・オーシポウィッシ・マカロフ中将は、ロシア海軍の至宝といっていい。
彼は正真正銘のスラヴ人で、しかもロシア海軍にとって例外的な存在であることは、貴族の出身でなく、平民の出身である事だった。帆船時代の水夫からったきあげ、しかもたたきあげに見られるような単純な実務派という人でなく、ヨーロッパのすべての国の海軍を見回しても、マァロフほどの理論家はいない。
実際から理論を抽出しさらに実際にもどして練り直し、そういう作業を繰り返して体系化するというのがマカロフ論理で、彼の戦術論は世界の名著であり、真之も一時期、熟読したことがある。
ついでながらマカロフの著述は、海軍の専門分野だけでなく、海洋学や造船学の分野にまで及んでおり、その点からいえばロシアが持つ最も有能な学者といっていい。
しかもこの学者はおそろしく筋肉質で、若い頃はマストに登るのが誰よりも早く、釜焚き仕事から司令長官まで一人で勤めよと言われればやってのける人物であり、そういうことや、平民出身ということなどもあって、下士官や水兵の彼に対する人気は圧倒的であった。
彼が旅順へ着任したのは、三月八日である。前任のスタルクと交代した。
マカロフはきわめて積極的な提督で、彼の着任とともに旅順艦隊の士気は見違えるほどにあがった。
広瀬は、マカロフを知っている。マカロフがクロンシュタット鎮守府の長官をしていた頃広瀬は訪ねて行って会っているのである。
「精気にあふれたような老人だった」
と、広瀬は真之に言った。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ