〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/20 (火) 旅 順 口 B 

○じつはそのボリス・ヴィルキツキーという青年のその後とその所在を広瀬は知っていたのである。
ヴィルキツキーはその後少尉に任官した。
彼が配属されたのは戦艦である。彼のとって幸福であったかどうかは別として、その戦艦はロシア海軍最大最新のツェザレヴィッチ (12912トン) であり、同少尉が配属されてほどなくこの艦は東洋に回航され、旅順に入ったのである。
開戦前の年の暮れであった。
ボリス・ヴィルキツキー少尉は、さっそく広瀬との約束を守り、広瀬がいるであろう佐世保に手紙を書いた。
「私は旅順にいます。戦艦ツェザレヴィッチの乗組です」
という文面だった。
広瀬はこの手紙を佐世保碇泊中の戦艦朝日の水雷長室で読み、露都時代、彼に優しかったすべての人々を思い出して感慨無量だった。特に彼の生涯にとってただ一人の女性であったアリアズナのことを思った。
記憶力のいい広瀬は、アリアズナが彼に送った愛の詩をすべて諳誦することができた。
この時期広瀬は多忙で、旅順にいるヴィルキツキー少尉に返事を書くことが出来なかった。
その直後、開戦になった。
戦艦ツェザレヴィッチの不幸は、開戦早々に行われた日本軍の水雷夜襲で、艦底を破られ擱座したことである。
その水雷夜襲の翌九日、日本の連合艦隊が旅順口外に接近、戦艦群の巨砲による六千メートルの遠距離射撃によって港口付近のロシア艦隊を砲撃したが、広瀬の朝日もこれに参加した。広瀬は艦上から敵のツェザレヴィッチを探したが、前面に大破して傾き座礁している戦艦レトヴィザンが邪魔になってよく見えなかった。
ヴィルキツキー少尉は、浅瀬にあぐらをかいた新造戦艦にいる。日本の連合艦隊がやってきたとき、擱座しながらもこの艦は舷側の六インチ砲を間斷なく撃ちあげた。露都時代、広瀬とヴィルキツキーが密かに恐れていたその現実がやってきたのである。

広瀬はいま、閉塞船報国丸の船長室にいる。手紙を書いている。
まず、彼が地上で再び会うことはないであろうその愛人のアリアズナに書いた。彼女への手紙の文面は、今は知るすべもない。
ついで旅順にいるボリス・ヴィルキツキー少尉に書いた。この手紙の内容は、わかっている。広瀬がこの手紙を書いているとき、たまたまロシア時代に一時おなじだった朝日の加藤寛治少佐がやって来たので、広瀬がその内容を話したのである。
「いま不幸にして貴国と砲火を交わす関係になったことはまことに残念である。しかしわれわれはそれぞれの祖国の為に働くのであり、個人としての友情には少しも変わりがない。私は既に去る九日、軍艦朝日にあって貴国艦隊を熱心に砲撃した。それさえ互いの友情から見れば尋常ではないが、今また閉塞船報国丸を指揮し旅順港口を閉鎖しようとしてその途上にある。わが親しき友よ、健やかなれ」
この手紙は通信艇に托され、数ヶ月の後中立国経由で同少尉の手に届いた。

閉塞隊の五隻は、二月二十三日の薄暮、円島の東南方二十海里の洋上に集まった。ここを出発点として、諸隊がそれぞれの航路をとって旅順に行くことになる。
連合艦隊も彼らを見送るためにこの洋上に結集した。
いよいよ出発という時、三笠の軍楽隊が奏楽し各艦では乗組員が登舷礼式をもって万歳を三唱した。
護衛のための第一駆逐隊が五隻の前衛になって進み、水雷艇千鳥以下四隻の第十四艇隊は衛艇としてその五隻の右側に位置し、第九艇隊はそれに続いた。
陽が落ち、上弦の月がかかった。波浪の強かった前日に比べると、海はまず凪いでいる。総指揮官有馬良橘中佐の乗る天津丸を先頭に、広瀬の報国丸、仁川丸、武陽丸、武州丸と続く。
広瀬は、夕食は船橋でとった。すでに秘密海図その他のものは焼いてしまっており、夕食後はすることがない。
「どうだろう、粟田君」
と、広瀬は大機関士の粟田富太郎 (のち海軍機関少将) をかえりみていった。
「なにか記念になるものを書き残したいのだが」
といったが、この本当の理由は広瀬にしかわからない。広瀬の言うのは、船橋に大きな幕を張りまわし、そこへペンキで何か書いておきたいというのである。
(何を記念に書き残す事があるのだろう) と粟田は不審に思ったが、それを手伝った。
やがて広瀬が幕に大きく書いたのは、なんとロシア文字であった。
それが、船橋に張りめぐらされた。この船が港口に沈んだ時、おそらく船橋だけは海面上に出る。ロシア人はそれを読むであろう。
「なんと、お書きになりました」
と、粟田大機関士が聞いた。
粟田は後年まで語ったが、広瀬のその時の表情は、快活な中にも奇妙なはにかみがあったという。
原文は残っていないが、広瀬がこいう意味だと粟田に語ったところでは、
「予は日本の広瀬武夫なり、いま来りて貴軍港を閉塞す。ただしこれは第一回たるのみ、今後、幾たびも来るやも知れず」
と、いう。
この報国丸が沈んでから、ロシア側はこれを読んだ。それについて、前記ブーブノフ海軍大佐の記録では、
「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君。請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここにきたる。さらにまた幾回か来らんとす」
と、書かれていた。
広瀬武夫がわざわざこれを書いたのは、旅順港内に自分のペテルブルグ時代の知人が多くいることを想定してであった。たとえばボリス・ヴィルキツキー少尉がいる。さらにはこの字幕がペテルブルグに伝わる事によって、彼のアリアズナに最後の挨拶を送ろうとするものであったろう。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ