〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/15 (木) 旅 順 口 A 

○この時期の広瀬武夫について触れておきたい。
彼の指揮する船は、報国丸 (2400トン) と決まった。機関長は粟田富太郎で、下士官兵は、十四人である。船には、既に自沈のための石材やコンクリートなどを積み込んである。爆装も、他の技術者の手で作業が終っていた。
広瀬と真之にとって兄貴分に当る八代六郎大佐は、一等巡洋艦浅間の艦長でいる。八代の浅間については、この艦が仁川沖海戦に登場し、ワリャーグとコレーツを撃破したことは既に触れた。
八代は、広瀬が好きであった。彼は広瀬が閉塞隊の五人の指揮官の一人になったことを知ると、すぐ通信艇を走らせて広瀬の乗っている戦艦朝日に手紙を送りつけた。
広瀬が開いてみると、
「此度の壮挙に死すれば、求仁得仁ものなり。邦家の前途は隆盛疑ひなし、憂慮を要せず、安心して死すべし」
と、書かれていた。 「海軍の侠雄」 といわれた八代六郎は手紙の文章が上手く、その死後 「八代海軍大将書翰集」 (昭和16年刊) という書物が出たほどであった。
広瀬へのこの文章は簡単だが、その背景の意味はこうであろう。維新後、藩を解消し、士族の特権を廃止し、徴兵令を布くことによって士族・平民を問わず兵にし、それやこれやで日本史上最初の国民国家が形だけ出来たが、しかし国民意識としての実質はなお曖昧であった。それが日清戦争によって高まったが、ただし日清戦争においてはまだ平民出身の兵士が自発的に国家の難に赴くというところが薄かった。十年後には日露戦争がこのようにして始まり、その初頭において閉塞隊志願のことがあった。八代は志願者はせいぜい百人ぐらいかと思っていたところ、二千余人が志願した。維新後の新国家において初めて国民的気概というものがこの挙によってあらわれ出た、とうのが八代六郎の見方らしい。 「邦国の前途は隆盛疑ひなし」 と八代が書いたのは、そのことである。

八代と広瀬とのつながりは、どちらも柔道が好きだったということから始まっている。その後、ロシア語勉強で交渉が深くなり、さらに相前後して両人がロシア駐在武官として露都ペテルブルグに赴任したところから兄弟以上のものになった。
気質が似ているところがあったが、両人とも詩文に関心が強かった点も相ひいてのかも知れない。
ある日、ペテルブルグの日本公使館へ行く途中、八代は急に、
「万里ノ長城、胡ヲ禦ガズ」
という詩句を唱し、広瀬これを俳句にしてみろ、それも今から三十歩あるく間に一句つくれ、と要求した。
広瀬は、五歩か六歩あるくと、もうふり返った。
「盗人を吾子と知らで垣造り」
八代は、感心した。
広瀬は滞露中、プーシュキンの詩の幾篇かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの 「隊長ブーリバ」 やアレクセイ・コンスタンウィッチ・トルストイの全集を読むことに熱中したことがある。日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことが出来たごく初期の人々の一人であろう。

広瀬武夫は生涯独身だった。上陸すると柔道ばかりしていて、呉や佐世保あたりで芸者遊びをしたというような形跡もない。ひょっとすると、三十七年の生涯でついに婦人を知ることはなかったようである。
 「広瀬は明るくて豪快な男で、しかも部下が可愛くてしかたがないという男でしたから、彼が乗る艦はみな晴れやかな空気になり、成績も大いに上がるというふうでした」
と、彼の兵学校の同期生の竹下勇次郎はそのように広瀬を語っている。彼自身、その信条から婦人に近づかなかったにせよ、婦人から見ればよほど好感の持てる男だったらしい。
彼の露都駐在時代、彼の出入りした社交界で彼ほど婦人たちから騒がれた日本人もない。大げさにいえば、明治後今日に至るまで、広瀬ほどローロッパ婦人の間で所謂もてた男もいないかもしれない。
とくに広瀬を一家の最も親しい友人として遇してくれた海軍少将コヴァレフスキー伯爵の娘でアリアズナ・ウラジーミロヴナという美少女が広瀬をはげしく慕った。アリアズナは文学的教養の高い娘で、その知性と美しさは海軍の独身士官の間での評判であったが、広瀬の五年近い滞在の間、やがて彼女は広瀬以外の男性を考える事が出来なくなった。広瀬もついにはただならぬ気持ちになったことは、彼女との往復書簡でもうかがえる。
彼女がロシア語で詩を書いて送り、広瀬がそれに対し漢詩で返事をし、ロシア語の訳をつけたりした。この万葉の相聞歌のような往復書簡を比較文学の対象として研究されたのが前東京大学教授島田謹二氏で、 「ロシアにおける広瀬武夫」 という名著がある。
アリアズナとの恋は、広瀬の帰国で終ったが、広瀬は閉塞船報告丸で旅順の敵地に赴く日、その昼前、その船長室で彼女に対する最後の手紙を書いている。手紙は通信艇にさえ渡せば、中立国を通じていずれはペテルブルグへ届くのである。
さらに露都での広瀬は、フォン・パヴロフ博士とその家族から愛されていたが、そのパヴロフ家に出入りしていたボリス・ヴィルキツキーという海軍兵学校を卒業したばかりの少尉候補生がいた。ヴィルキツキーは広瀬を兄のように慕い、
「タケニイサン」
という日本語を使って付き纏っていたが、広瀬がいよいよ帰国するという時、パヴロフ家の送別会の席上で、彼はこの青年と以下のような約束をした。
「ロシアと日本の上に、将来放火を交えるような不幸が来るかも知れない。その時は互いの祖国の為に全力をあげて戦い抜きたいものだが、しかし我々の友情は友情として生涯大事にしたい。戦争になっても互いの居場所をなんとか知らせ合おう」
というものであった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ