〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/15 (木) 旅 順 口 @ 

○「旅順は閉塞する以外にない」
というこの非常作戦を強く言い出したのは、じつは秋山真之でない。真之は米西戦争の観戦武官としてサンチアゴ港の閉塞作戦をつぶさに実見し、海軍省を驚かせたほどに科学的なレポートを書いた。その意味ではアメリカが考案したこの特殊作戦の日本における唯一の権威であった。
「秋山は、何と言っても閉塞を知っている」
ということが、彼が艦隊参謀に抜擢された理由の小さな一つかも知れなかった。
ロシアと戦う場合、当然海軍の第一期作戦は旅順港との格闘になる。海軍軍令部の案として 「閉塞」 ということは早くからあった。
旅順口に古船を沈めてしのビンの口を閉ざしてしまい、港内の敵艦隊を物理的に閉じ込めてしまうのである。
旅順の港口はじつに狭い、その幅は273メートルで、しかもその両側は底が浅いため巨艦が出入り出来るのは真ん中の91メートル幅しかない。そこへ古船を横に並べて五、六隻沈めてしまう。
「それ以外にないのだ」
ということを、開戦の前からとなえていたのは東郷の参謀の一人である有馬良橘中佐と戦艦朝日の水雷長である広瀬武夫少佐である。
有馬が、主導的にやった。彼は実行力に富んだ男で、
「つべこべ議論をするより準備をしてしまえ」
ということで、開戦前、艦隊がまだ佐世保にいるときから半公式の形で準備をした。東郷はそれに対し常ににえきらなかっら。
有馬は、五隻の汽船まで決めてしまい、それに積んで行く爆薬その他も用意し、五隻に乗せた。それらの準備をやったのは有馬ともう一人いる。やはり東郷の参謀で松村菊勇大尉であった。この二人は、参謀でありながら実施部隊の指揮官になるつもりであった。東郷はこの点でも気に入らなかった。
ところが松村菊勇大尉が、二月九日の連合艦隊主力による最初の旅順攻撃の時に、三笠の後艦橋で負傷し、佐世保海軍病院に送られたため、有馬としては松村に代わるべき士官が必要になった。
それを、広瀬に持ちかけた。広瀬はかねて同じことを考えていたので、一議もなくこの計画に乗ってきたのである。
ところが 「閉塞」 の権威であるはずの真之は、実際は煮え切らなかった。
彼は旅順要塞の実情がわかってくるにつれ、
「サンチアゴ港でこそできたが、旅順要塞はまるでちがう。サンチアゴ港の千倍の砲力を持っているし、第一港内の艦隊がスペイン艦隊でなくロシアの大艦隊だ。やれば必ず死ぬ」
と、言い出したのである。
真之は 「流血の最も少ない作戦こそ最良の作戦である」 と平素言い、閉塞には冷淡になった。しかし自分の先任参謀の有馬が自らやるということを、真っ向から反対も出来ず、煮え切らなかった。

かといって真之の思案は、振子のように動いている。
ときに、
------やはり閉塞しかないのではないか。
と思ったりした。このあたり、彼ほど思い切りのいい男としては不思議なほどであった。
参謀は、戦争と戦闘の設計家といわれている。刻々移る戦いの様相に応じて刻々設計をかえてゆく。それを刻々実施部隊が実施する。その設計の良否によって死者の数が違ってくるのである。
「作戦ほど恐ろしいものはない」
と、真之はつねに言った。この人物は、軍人としてはやや不適格なほどに他人の流血を嫌う男で、この日露戦争が終った後、 「軍人を辞めたい」 と言い出した。僧になって、自分の作戦で殺された人々を弔いたい、と言うのである。海軍省はあわてて真之に親しい人々を動員して説得にかかったが、真之はきかず、一時発狂説が出たぐらいであった。
ともかくしかし海軍省としては真之に坊主になられては迷惑であった。彼のいうことを海軍が道理として認めれば、一戦争が終るたびに大量に坊主ができあがることになる。
そういうところがあるだけに、彼は閉塞作戦の唯一の権威でありながら、これを計画化することについては弱気で、時にははっきりと、
「運と兵員の大量の死をはじめから願って立てるような作戦なら、策戦家は不要である」
と、言ったりした。

ところでこの時期、参謀として彼の上位に先任の有馬良橘中佐がいた。有馬はやがて他へ転じ、真之が少佐のまま先任参謀になるのだが、この時期は有馬が先任である。
有馬は最初から閉塞論者であり、東郷にも独断で準備を進めていたことは既に触れた。作戦家としてのモラル論については有馬は 「立案した私自身が隊長として死地に飛び込むならいいではないか。それが理外の理というものだ」 といった。
この閉塞戦がいよいよ二月十八日に命令されるのだが、作戦については慎重な準備が行われた。
その一つとして三笠艦上に実施部隊の各指揮官が集められて会議が開かれたのだが、その席上、真之は実に弱いことを言っている。
「もし途中で見つけられて猛射を受けたとき出直すということで引き上げたらどうか」
これを聞いて実施者である広瀬武夫が 「それはだめだ」 と立ち上がり、
「この作戦で弱気は禁物である。断じて行えば鬼神もこれを避くということがある。敵の猛射というが、猛射は当然の事態だ。骨がらみになっても押して押しまくってゆく以外に成功は開けぬのだ。貴様のようなことでは、何度やっても成功しない」
と、反対した。
最後には東郷が決をとった。その中間をとった。
「帰るか行くかは、その状況によって各指揮官の独断に任せる」
さらには、実施後の脱出救助については、東郷は汽船一隻について水雷艇一隻をつけ、その各水雷艇を港口の外で待たせておくなど万全の方法を取った。

閉塞の実施計画については、中佐有馬良橘は、少佐広瀬武夫らと案を練った。
港口に沈める汽船は、五隻である。天津丸、報国丸、仁川丸、武陽丸、武州丸で、それぞれ一隻について十四、五人乗る。総人員は指揮官、機関長を除くと、六十七人が必要であった。
下士官以下の人員は、ひろく艦隊から志願者を募った。
たちまち二千人が応募し、有馬や広瀬を驚かした。
なかには血書をして志願する者もいた。
「このいくさは勝つ」
と、広瀬は真之に言った。
広瀬の言うには自分たち士官は年少の頃から志願し、礼遇を受け、戦いで死ぬ事を目的として来たが、兵は外国でいうジヴィリアンの出身である。それらがすすんで志願したということはこの戦争が国民戦争であることの証拠である。
広瀬がそんなことを言うのは、彼がロシア通ふぁからであろう。広瀬は開戦の前に帰国しているから開戦後のロシアの事情はわからないが、しかし想像は出来た。
帝政ロシアの国民は、皇帝のシナにおける新しい財産を守るためこの外征を喜ぶほど単純ではない。すでに都市では革命の気分があり、帝政そのものが危なくなっている。広瀬はそのことをよく知っている。
二千人から、もっとも肉親の関係の少ない者という基準で、六十七人が選抜された。
二月十九日の午後六時、東郷は旗艦三笠の艦上にこの閉塞隊の士官を招き、送別の宴を張った。広瀬はむろん、主賓の一人である。送る側として真之も出ている。
一同席につくと、東郷はゆっくり立ち上がり、卓上のシャンペン・グラスをあげ、低い声で、
「このたびはご苦労である。十分成功を望む」
とだけ、述べた。無口な東郷としては長すぎるほどの挨拶であった。
------十分成功を望む。
と東郷は言ったが、はたして成功についてどの程度の公算が胸にあったか疑問である。
第一、立案者で実施上の総指揮官でもある有馬良橘も胸中、その疑問が強かった。
この閉塞作戦は夜間行われるものだが、夜のめくら作業などでこれほどの大仕事が出来るはずがない。有馬の計画は夜明け前に突入してほのぼの明けとともに開始するつもりであった。むろん、太陽の下の仕事だから、全員戦死するだろう。
ところが東郷は、その計画の時間を変更させて夜間にさせた。夜間ならば作業後全員を収容することができる。これによって生還の公算が大きくなるが、しかしそれに比して成功率も少なくなる。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ