では、その後の李白はどうしていたのであろうか。
話は少々遡るが、天宝四年 (745) に山東の地で杜甫と別れてからの約十年間、揚子江の下流から中流への各地を放浪していた李白は、ちょうど宣城
(センジョウ) (安徽省) あたりにいた時に、安禄山の乱が勃発した。この江南のあたりに直接の戦渦が及ぶことはなかったが、玄宗の第十六皇子の永王?
(エイオウリン) (粛宗の弟) が、江南で安禄山討伐の兵を挙げるや、李白は招かれてその幕僚となった。玄宗から帝位を譲られた粛宗は、永王が己の帝位を奪いはせぬかと疑いを持ち、永王に蜀の玄宗のもとに行けと命じたが、永王がこれに従わなかった。このため永王は朝敵として討伐され、殺されてしまった。至コ
(シトク) 二年 (757) 二月の事である。
その幕僚となった李白も反逆者の一味として捕らえられ、潯陽 (ジョウヨウ)
(江西省) の獄に投ぜられ、いったんは死罪と決したが、今は将軍となって武勲の赫々 (カツカク)
たる郭子儀が、かって大原 (タイゲン) で李白に難を救われた時の恩を忘れず、己の職を賭して弁護してくれたおかげで、減刑されて夜朗
(ヤロウ) (貴州 (キシュウ)
省) に流されることになった。
しかし、途中で大赦にあい、その後の二年間、また揚子江を下って放浪のたびを続けるが、最後には当塗
(トウト) の県令をしていた身内の李陽冰 (リヨウヒョウ)
に病の身を寄せ、代 (ダイ) 宗の宝応 (ホウオウ)
元年 (762) 十一月、病死した。六十二歳であった。
李白が死んだ時、杜甫は成都にいた。成都には、この地方の節度使だった友人の厳武 (ゲンブ)
がいた。杜甫は厳武の保護を受け、工部員外郎 (コウブインガイロウ)
の職を授けられ、また成都の郊外の浣花渓 (カンカケイ) のそばに草堂を設け、これまでの生涯のうちでは最も平和な日々を過ごしている。
しかし代宗の永泰 (エイタイ) 元年 (765)
四月、厳武の死によって有力な後ろ盾を失った杜甫一家は、再び旅に出る。もちろんその間、束の間の安らぎに日々の中にも、北の故郷を忘れていたわけではない。広コ
(コウトク) 二年 (764) 春の作とされる、有名な
「絶句」 と題する詩には、この頃の心境がよくあらわれている。
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