〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/30 (金) サムライの終焉あるいは武士の叛乱 E 

福沢が、西郷の死において言いたかったのは、先に述べた抵抗論よりも、また右のような事情論よりも、じつはサムライたちがついに滅亡してしまったということについてのさびしさについてだったでしょう。
西郷の死と、西郷の後輩たちの大量死は、サムライたちが保持していた日本人の品性や気骨、質実さが、今後、急速に薄れて行くという不安を福沢に抱かせたのでしょう。
“個人の独立” といったところで、薄っぺらな個人が独立したところで、何ほどの業を済すわけではありません。福沢は、それより生年の若い内村や新渡戸たちが大切にした、武士道というものを大切にしたかったのです。
彼らは米国でニューイングランドあたりにいる敬虔で厳格で自律的な新教徒を多く見ました。
彼らが持つ個人の厚みを十分に知っていました。それに匹敵するものが、まだ十分に世界性の中で研かれていないとはいえ、武士道ではないか、と彼らは思ったのです。
福沢は、 『丁丑公論』 の中で、政府が西郷を “賊” としたことに腹を立てています。西郷一個のことよりも “賊” にされることによってサムライまでが亡びてゆくのではないかということを、日本の為に最も不安としたのです。
そのことは、福沢が明治二十四年に執筆した 『痩我慢の説』 にもよくあらわれており、 『丁丑公論』 の第二編というべきものです。
『丁丑公論』 の中で、福沢は、東京で栄華の中にいて、ときに不品行な者さえ出ている官員達の事を、
「人面獣心」
という激しい言葉で評しています。もっとも福沢は自分が使ったようにいわず、薩摩士族のうち、故郷にいるものが、東京で官員になった者をののしってそういっている、というのです。
薩人は東京と故郷の二派に分かれています。東京で官員になって栄耀栄華の中にいる者と、故郷で、古来の質朴の中でいる者とです。
故郷の者は、東京の官員を 「評論して人面獣心と云ふに至れり」 と書いています。
ちょっと使うのをはばかる言葉ですが、あえて福沢が使ったのは、彼も同感だったからでしょう。ついでながら、質素というのは、欧米でも日本でも、高貴な響きを持った言葉でした。英語のPlainという簡単・質素といった言葉は、高潔な精神と仲間をなす精神とされています。これもプロテスタンティズムの遺産というべき精神、あるいは生活態度でしょう。武士における質素というものは、精神を置くスタイルとして欠かせないものでした。

西郷が東京に居たたまれなくなったのは、じつは正論・政権の相違といったものよりも、馬車に乗り、贅沢な洋風生活を取り入れて民の苦しみ (百姓一揆が多発していました) を傲然と見下ろしているかのような官員たちの栄華をこれ以上見ることに耐えられなくなったからでした。
西郷は、真正の武士でした。
しかも、その “東京政府” は、西郷がつくったのです。西郷はこれらの現状を見て、 “討幕のいくさはつづまるところ無益だった” とこぼしたり、
「かえって徳川家に対して申し訳なかった」
といって、常に恥じ入る心を表していた、という話を福沢は聞いています。福沢はかっての町人にその経済を見習え、などといって、着流しの町人姿でいることが多うございました。さらには、一階級たるべきことを唱え、平等を願い、
「国民」
を設定し、国民が主人である、政府は国民の名代人にすぎない、といったりしました。さらには、
「門閥制度は親の仇でござる」
とも言いました。だから、制度としての士族保存をいっているのではないのです。前時代の美質を引き継げといっているのです。
革命というのはじつに惨憺たるもので、過去を全て捨て去るものですが、過去のよかったものを継承しなければ社会や人心のシンが出来上がらない、ということを言いたかったのでしょう。

西郷も、廃藩置県に同意した事では、国民の設定については大きく賛成したということになります。が、彼には、彼自身が一身で解決できないほどの矛盾がありました。彼は武士が好きだったのです。とくに薩摩武士が好きだったのです。人間として信頼できるのはこの層だと思っていました。この層を制度として生かせば “国民” はできあがらない。かといって、彼にとって宝石以上のものである武士を廃滅させることはできない。
西南戦争の真の原因はそこにあります。
同時に、これを滅ぼした政府は “議論” をもって滅ぼさず、権力と武力をもって滅ぼしたのです。あまつさえ、その “武士” である敵を “賊” としました。
福沢の嘆きは、この “賊” ということにあります。
せっかく欧米とくに新教国と、精神の面で張り合って十分遜色の無い “武士の心と生活” というものを、政府は “賊” としたということを、福沢は、国家百年のために惜しみかつ、心を暗くしたのです。 『丁丑公論』 の文章の激越さは、その憤りにあります。

西南戦争における当初の薩摩士族軍 (私学校軍) は、約一万二千でした。西郷は、反乱について終始積極的ではありませんでした。彼ら郷党人が決起するというので、彼はやむなく、勝海舟にいわせると、身を渡してしまったのです。以後、西郷は、作戦について何の意見も述べていません。自殺するようにして身をゆだね、七ヶ月の戦いの後、政府軍の重囲の中で別府晋介をかえりみ、
「晋どん、このへんでよかろう」
首を刎ねよ、といって自害しました。
この戦いの規模は、大変なものでした。九州各地の旧藩の士族が呼応し、総勢三万にたっしました。薩摩を中心とする日本最強の士族たちが死ぬことによって、十二世紀以来、七百年のサムライというものは滅んだのです。
滅んだ後で、内村鑑三や新渡戸稲造が書物の中で再現しますが、それはもはや書斎の “武士” だったのではないでしょうか。
さらには、政府は、軍事教育や国民教育を通じて武士的なものを回復しようとしますが、それらは、内村や新渡戸の武士道ではなく、ひどく痩せて硬直化した、きわめて人工的な武士像でした。
西南戦争を調べてゆくと、じつに感じにいい、もぎたての果物のように新鮮な人間達に、たくさん出くわします。いずれも、今はあまり見当たらない日本人たちです。彼らこそ、江戸時代が残した最大の遺産だったのです。そして、その精神の名残が、明治という国家を支えたのです。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ