〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/30 (金) サムライの終焉あるいは武士の叛乱 D 

さて、 『丁丑公論』 です。
その前にひとこと申します。明治初年から十年までの間のことを調べていますと、この十年で、その後の日本国家の基礎がほぼ出来上がったように思います。
権力の中心機関である国家会計の整備、徴兵制による陸軍建設と、造船と教育を中心とした海軍の基礎がため、警察の整備といったものは、権力の自己強化として当然必要な事だったのですが、そのほか、早々に鉄道工事に着手し、明治五年には日本最初の鉄道が開通しましたし、明治四年には郵便制度がスタートしました。大学も開校し、港湾の近代化も、着実に出発しました。
わずか十年で、よくやったと思います。
が、それは、たとえば議会という民主的手続きによっておこなったのではなく官員が思いつき、小数の仲間で決めて、どんどん実行してから早かったに過ぎません。なにしろ、明治初期政府というのは、書生の集まりでした。ついこの間まで攘夷に走り回っていた連中です。
薩摩や長州の攘夷には表裏二つの意味がありました。
攘夷を叫び、攘夷の実行を幕府に迫る事によって日本中の素朴世論をかきたて、自分たちに世論を引き寄せておいてから、幕府を倒す。
そのあとは、開国する。開国どころか、ヨーロッパなみの国にする、というものでした。
たちがわるいといえばそのとおりです。もっとも革命というのは譎詐奸謀 (ケッサカンボウ) だましとからくりと陰謀に満ちたもので、決してきれいなものではありません。幕末の福沢でさえ、だまされていた。
そういう志士や書生たちでは、とても実務はできないものですから、薩長が上に立ちつつ、旧幕府や各藩の優秀な人材を集めました。権力は薩長の藩閥が握り、実務は彼らがやります。実務家というのは仕事をしたくてたまらない人々ですから、着想しては藩閥人の許しを得てどんどん実行する。

明治初期政府とは、そういう官員団の名をかえたものでした。彼らに、途方もない権力や権限がある。だから、一独裁者による専制ではなく、官員団による集団専制というべきものでした。まことに、 「有司専制」 でした。
福沢の文章はわかりやすいのですが、『丁丑公論』の文章は少し古格な感じなので、口語に直しながら、ふれてゆきます。
「人間の性というのは、思うことを何でもやって遂げたいところがあって、これをいわば専制といえなくはない。政府にしてもそうである。だから、専制だからといって咎むべきではない」
なんだか政府を弁護しているようでもあります。
「しかし政府の本能が専制であるからといって、放っておけばきりもなくなってしまう。要するに専制は、これを防がなけらばならない」
それは、火に対して水が入用であるようなものだという。防ぐ方法はただ一つ、
「抵抗あるのみ」
抵抗の方法は色々ある。文でやる方法、武でやる方法、あるいは金でやる方法。近頃の日本は、
「文明の虚説に欺かれて」 だんだん抵抗の精神が衰えてきたようだが、これはいいことではない。
世の中は無気力になっていて、士民とも、政府の勢いの前にちじこまっており、真実を言わず、おべっかばかりいったりしている。
「自分は西郷氏に一面識もない。今から述べることは、私情から出たものではなく、公論として書く。一国民の公平を護りたいために書くのだ」
福沢は、この稿を深く家に蔵めて、時節を待って発表したい。その目的は 「日本国民抵抗の精神を保存して、其気脈を絶つことなからしめん」 がためである、というのです。
「乱の原因は政府にあり」
と、福沢は断言します。そしてその理由を綿密に書いていますが、ここでは西南戦争が主題ではありませんので、ふれません。

福沢は、西郷について、まず、
----- 彼が国に対して何か悪いことをしたか。
というのです。なにもしてはおりません。むしろ西郷には大功があります。であるのに、彼に賊名を着せるのはおかしいのではないか。
さらに西郷の無私について誉めるのです。
また西郷は、封建制を喜ばなかった。もし彼が封建制支持者なら、徳川氏を倒した時に島津氏を将軍にしたろう、でなくても、彼自身が大名になったはずだが、そんなことをしなかった。それどころか、維新後は彼は島津氏の不興を買い、その上、彼が賛成する事によって、廃藩置県という、維新以上の大改革をやり、それによって大名も士族も消滅した。彼が消滅させたといっていい。
また乱を好むわけでもなかった。
明治七年、前司法卿江藤新平が故郷の佐賀に帰り、佐賀の不平士族にかつがれて乱を起こしたが、政府軍によって潰滅させられた。この時、西郷は鹿児島に帰っており、佐賀の乱に呼応しようという動きがあったのを押さえ込んだ。
明治九年、前兵部大輔前原一誠が長州で乱を起こした時も、西郷は動かなかった。

福沢はそのように言うのですが、私には政府側にとって鹿児島 (薩摩) を討つというのは、無理もなかったように思うのです。
明治初年以来、島津久光の意を受けた久光党の人々が、鹿児島県庁を牛耳っていて、租税を一切中央に送らず、中央の命はきかず、一独立国のようでした。その実情は、政府として外聞が悪いので、公表しませんでした。明治十年の時福沢はおそらくそのことを知らなかったでしょう。
なにしろ、明治政府は、久光の意に反したとはいえ、島津氏の財と兵力のおかげでできたのです。政府としては、鹿児島県に服従を強いるわけにもいかず、実につらいことでした。とくに長州の木戸は、大久保に対し、
----- 鹿児島の我儘をなぜ放置しているのか。
と、しばしばなじりました。
そいういう鹿児島の状態の中に西郷が戻って行ったのです。陸軍大将の現職のままでした。政府派制止する事も出来ず、また官職を辞めさせる事も出来ず、給料は陸軍省に積みおいたといわれています。
その西郷の後を追って、陸軍の近衛軍の薩摩の軍人が大挙帰ってしまう。結局、政府としては機を見て、全力をあげてこれを討つというのも、統一政府の権力の論理としては当然だったでしょう。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ