〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/29 (木) サムライの終焉あるいは武士の叛乱 C 

明治十年二月、西郷が鹿児島県士族一万二千に擁せられて彼らに体を与えるようにして立ち上がった。
彼らは武装東上して政府を尋問すべく鹿児島を発す。
二月、熊本城の攻防戦。三月、田原坂の激戦。四月以降、政府軍が増強され、九月、薩軍は潰滅。西郷以下、賊とされた。

この乱については、乱の直後から様々の解釈がおこなわれています。
低く評価する人は、これを単に土俗的な郷土主義 (ナショナリズム) の爆発とか、あるいは反乱者に国家的な見地がなく、単に士族の私益擁護、私的感情、怨嗟が反乱の形態をとったもの、とするなどで、ときに、明治初期政権の頂点にあった大久保と西郷の死闘とみる人もいました。
ところが、当時、もっともハイカラな人とされていた福沢は、文明論の立場から西郷とその郷党の士族たちを是認したのです。
福沢は、明治十年秋、西南戦争が西郷の敗北で終った直後、 『丁丑 (テイチュウ) 公論』 という論文を書きます。発表するつもりがなく、長く筺底 (キョウテイ) に秘めておくつもりでしたから、文章には物事の本質の底の底まで掻きとってくるような痛烈さがあります。
二十余年後、門人が福沢の許可を得て時事新報に連載します。連載が終る前に、福沢は死にました。
「猿にでもわかるように書く」
という明晰さが福沢の文章でした。それだけに、 『丁丑公論』 の文章はいっそう痛烈でした。
この場合、論者の福沢と言う人について述べておく必要がありましょう。
彼は今の大分県の中津の藩士でした。江戸末期、大坂や江戸で洋学をおさめ、幕末、咸臨丸の船将 (アドミラル) 木村摂津守の従者になって渡米しました。帰国後、その洋学を買われて幕臣になりました。
彼は自分が旗本というよりも、技術でその身を買われただけの存在だと、じつにくっきりとした自己認識を持っていました。語学技術者だけに、公務でその後、欧州とアメリカに渡航しました。幕末において三度も海外に行ったというのは、珍しい経歴でしょう。
そのように、にわか幕臣ながら、幕末争乱期の中で、孤独に日本の将来を考えました。
彼は “個人の独立があってこそ国家の独立がある” と考えていましたし、その個人の 「独立」 の中身は、自由と平等でなければならないと考えていました。つまりは、勝海舟や坂本竜馬が考えた国民国家の樹立ということでした。
彼は幕臣でしたから、幕府をして諸大名を解散し、国民国家をつくらせるということはできないか、と考えました。
彼は徒党を組んだり、同士を求めるといった人ではなく、つねに一人で物を考える人でした。たった一人の密室でそれを考え、同時にそれを打ち壊しました。それをやるには幕府の力はあまりにも弱い、ということに気づいたのです。それで、絶望的になりました。
では雄藩はどうかとながめますと、彼の目に見える薩摩や長州などという藩も他の藩も、単純極まりない排外思想 (尊皇攘夷) と運動をやっているに過ぎず、こんな無知な連中 (結局それが、西郷・大久保あるいは長州の木戸孝允だったのですが) に新国家が興せる筈が無い、と思いました。
彼の大坂での恩師緒方洪庵 (1810〜63) が、江戸へ奥御医師 (オクオイシ) として呼ばれてその地で病死 (文久三年) したとき、福沢も二十八歳で江戸にいました。通夜の席で、同窓の長州人村田蔵六 (大村益次郎) に会い、村田が長州の攘夷派を是認しているのをみて、胸が悪くなりました。その大村がのちに討幕の総司令官になるなど、互いに夢にも思っていなかった時です。
ともかくも福沢は、日本には国民国家が出来上がる芽がないと絶望し、1868年六月 (慶応四年、明治への改元は九月) 御暇願いを出しました。私塾 (慶応義塾) で若人を教えることに専念したのです。
福沢は、 「独立とは、自分で自分の身を支配して、他によりすがる心が無い事をいう」 ( 『学問のすすめ』 ) といいます。
また、
「外国に対してわが国を守るには、自由独立の気風を全国に充満させ、国中の人々は身分賢愚を問わず、国家を自分一個に引き受け、国人たちの分をつくすほかない」
ともいいます。
攘夷騒ぎで国が守れるか、と言いたかったのです。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ