〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/29 (木) サムライの終焉あるいは武士の叛乱 B 

明治初年の人口は、ざっと三千万ほどでした。
そのうちに、武士 (足軽を含めて) は家族も計算に入れると、二百万弱でした。人口の七パーセントほどで、ユンカーなどからみると、大変な人数です。正確には明治六 (1873) 年の調査で、百八十九万二千人、戸数にしますと四十万八千余戸です。
明治四 (1871) 年の廃藩置県は、それらを一挙に失業させたのです。
二百数十人の大名については、東京に集めて華族にし、石高や華族身分に応じた手当てを出しました。
それらの家来である武士たちについては、明治政府は 「秩禄 (チツロク) 処分」 という法的原則を作り出し、退職金というべきものを出しました。大変数学的なもので、ここで再現しても意味をなしませんが、ともかくも武士としての家禄を政府は現金や公債にして支払い、彼らにその身分と特権を捨てさせたのです。
さらに政府は、失業後の彼らを救済すべく、とくに対策として手に職をつけさせるべく、士族授産事業というものをおこしかした。が、ほとんどが失敗しました。 “武士の商法” とという言葉がはやりました。現実感覚が無くて失敗をするという滑稽さを諷した言葉でした。

全国二百万近い士族からみれば、バカにした話じゃありませんか。とくに、明治維新をつくった側の士族 (その代表的なものは、薩摩藩と長州藩。それに土佐藩と肥前佐賀藩) は、命をマトに戦争に出かけて、北陸で激戦をし、東北で攻城戦をやり、北海道の箱館まで行って戦争をして、やっと命一つで東京に帰ってくると、解散です。殆どの士族はご褒美もお手当ても出ません。国許に帰ると、士族は廃止というわかです。
これで腹を立てない人がいたら、きっと仏様のような人でしょう。
ただ、彼らの働きのおかげで、
「国民」
という均質のものが創出されつつあったのです。
歴史は彼らに感謝しなければなりません。しかし、当の彼らにすれば、そんなことは約束していなかったんです。薩摩や長州の士族といえども国民国家の樹立などという革命意識、たとえば、 “さあ国民を創り出しましょう” といったものがあったわけでなく、そのように教えられていたわけでもない。彼らは戦士として従軍したのです。古来、戦士には思想は有りませんし、そんな余分なものがあっては強い軍隊はできません。
薩摩の場合、藩主は幼少でしたから、その実父の島津久光が事実上の藩主でした。戊辰戦争 (遺臣の革命戦争) で兵を出し、在を費やし、そのあげくの果てが、大名とサムライを廃止してその領地を取り上げるというものでした。
「東京の連中は、なんというやつらだ」
と、島津久光が怒ったのも無理はありません。いつか述べましたように、久光は渾身保守の人で、幕藩体制を是認し、サムライ制度が永遠に続くことを願い、さらには、学問は漢学を重んじ、風俗は古来のものを守るという人だったのです。
こんな人が、革命の急先鋒の薩摩藩の藩父 (変な言葉ですが、薩摩ではそのように尊称していました) だったんですから、歴史は皮肉ですね。
彼は、いわば楼上で茶を喫しているあいだに、薩摩軍が京都郊外で戦い、関東や北陸で戦い、北海道まで行って戦っていたのです。そして世が変わってしまったのです。
「西郷 (隆盛) 大久保 (利通) にだまされた」
と、歯噛みして憤りました。
久光にすれば、私どもが明治維新の二本の柱だと思っているこの二人は、不忠者であり、謀反人でありました。

久光は大名貴族ですから、経済的には華族として結構なことなのです。しかし、ただの士族は、特に先の戊辰戦争の勝利側 (薩長土肥) の士族にすれば、誰に対して腹を立てればよいのか。
大久保利通に対してです。彼は、才能、気力、器量、無私と奉公の精神において同時代の政治家かれ抜きん出ていました。
私は今日に至るまでの日本の制度の基礎は、毎時元年から明治十年までに出来上がったと思っていますが、それをつくった人間達について、それをただ一人の名で、代表せよと言われれば、大久保の名をあげます。
沈着、剛毅、寡黙で一言の無駄口もたたかず、自己と国家を同一化し、四六時中国家建設のことを考え、他に雑念というものがありませんでした。
大久保は宰相でもなんでもなく、政府の一つの部分を受け持つにすぎませんでしたが、人々が大久保を重んじて案件の殆どを彼のもとに持ち込むか、彼の承諾を得るか、いずれかでありましたので、彼は事実上の宰相でした。それ以上でした。
なにしろ明治政府は、薩摩と長州の軍事力の上に成り立っていました。維新のために提供した軍事力は、長州を四とすれば、薩摩は六でした。薩摩は、株式会社で言えば、筆頭株主でした。大久保はその上に乗っていました。
当時の政府のことを、
「太政官」
といいました。
明治十八 (1885) 年に憲法制定の準備ということもあって、内閣制度をとりますまで、政府というのは、太政官でありました。略して “官” といいました。
「官」
じつに強力な権力で、思い切った施策をどんどん実行してゆくのです。士族を一挙に廃止するというほど思い切ったことができる権力が、史上あったでしょうか。
で、役人、官員、官僚。当時はふつう官員といいました。官員ひげとか官員風を吹かすといった言葉があります。旧幕の大身の旗本より威風があったのではないでしょうか。いやなことですが。この官員のことを、在野の人々は、漢文風に、
「有司 (ユウシ)
とよんでいました。
「有司専制」
というのは、政府・官員が、勝手に物事をどんどん押し進めるということです。一般に対し、相談ということがありません。有司専制は、当時の在野勢力 (不平士族たち) が、政府を罵るときの決り文句でした。
在野勢力は、要するに不平士族のことです。ただそれが、一部においては 「自由民権運動」 のかたちをとりました。もっとも、太政官で重職を持つ土佐藩の板垣退助らは不平が動機ではありません。
板垣らは、明治七年、民撰議員 (つまり国会ですね) これを設けよ、と政府に建白書を出します。自由民権運動の始まりでした。この初期の運動は、結局は不平士族を基盤としていました。
ただし、今回は自由民権運動を語るのではありません。サムライの廃絶とかれら士族の不平、そして反乱についてふれます。
いくつかの士族の反乱がありました。最大にして最後の反乱だったのが、西南戦争でした。
この一大事変について、年表風に言っておきます。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ