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2007/03/29 (木) サムライの終焉あるいは武士の叛乱 A 

話がわきに外れているように思われるかもしれませんが、そうじゃなくて、明治の 「士族の叛乱」 を述べるについては、 “サムライの変遷” を述べておかねばならないので、こんなことを語っているのです。
“ユンカー” どもに力を失わせたのは、日本の場合、十六世紀の織田信長 (1534〜82) でした。
糧は自分の軍団を、過去の伝統から少しずらした場所でつくりました。兵農分離です。サムライを農村から切り離して、軍事の専従者にすることでした。農民は農村にしばりつけられ、農業生産のみをする存在としました。
織田信長の天下構想は、まず商品については無税にして流通をよくし、農村貴族であるサムライを城下に集め、農村と切り離し、農民は農民でこれを純農民にするということでした。
この政策は、織田政権を継いだ豊臣秀吉政権によって大きく展開されました。
豊臣政権が徳川家康政権 (江戸幕府) に引き継がれるのは、1600年、関ヶ原の戦からです。
“天下分け目” といわれた関ヶ原の合戦は、美濃 (岐阜県) の関ヶ原という小さな盆地でおこなわれます。東から行軍してきた諸大名の連合軍と、西から来た諸大名の同盟軍とがここで決戦するのですが、両群合わせて三十万人ほどの人数の決戦でした。
それから二百年余り経った千八百十五年六月、ベルギーの寒村ワーテルローで、ナポレオンが率いるフランス軍とウェリントンが率いる英国・プロセイン連合軍の決戦がおこなわれますが、このヨーロッパ分け目の戦いに参加した兵員は、両軍合わせて二十数万に過ぎません。
日本が幸か不幸か、人口の多かった国だったことが、この比較においても象徴されます。

関ヶ原で敗れた側のサムライの多くは、農民身分になりました。
勝った側のサムライが、江戸時代の幕藩体制をつくるのです。
幕府と言う第一政府 (福沢諭吉の 『丁丑公論 (テイチュウコウロン) 』 の用語) と、三百ちかい大名が、それぞれの領地で小政府をつくりました。徳川家 (幕府) には直参と呼ばれる旗本・御家人がいて、その数は家族を含めて五万人を越しましょう。それらは、江戸で住みました。
大名も多数の武士や足軽をかかえています。要するに、戦国時代の戦闘員がそのまま平和な社会で、国家公務員 (直参) や地方公務員 (藩士) になったのです。行政にそんな人数は要らないのです。何パーセントかの公務員 (武士) は、生涯無役で、先祖から引き継いだ家禄で食べていました。役に就いた者も、一人でやれる小さな職種を三人でやるといったふうで、いわば幕藩体制そのものが、仕事をするというよりも、養人組織でした。
彼らを養っているのは、農民でしたから、農民の暮らしは、一部を除き、江戸期を通じて苦しかったのです。
幕末に日本に来たヨーロッパ人は、日本の気候と土壌が農業に適しているのに、農民が貧しいことに驚きます。そのわけは、右の事情の中に見出すことができます。
しかし、ありあまるサムライたちの多くが読書階級をなし、また武士的節度を重んずるという規律を保ち、いわば江戸期日本の精神文化を支えたともいえます。
農民にとって大変高くついた制度でした。しかし日本史全体という場所から見れば、帳尻は合っていたでしょう。

明治の日本人は、過去の武士道をはげしく思い出したりしています。
たとえば無教会主義のキリスト教徒だった内村鑑三 (1861〜1930) は、高崎藩士の子として武士道の中で育ち、札幌農学校で入信し、在学中に 「信仰の独立」 を唱え、独立こそ生涯の主題になりました。外国の援助や干渉を受けざるキリスト教というものを主唱したのです。明治十五年に 「札幌独立基督教会」 をたてたり、その後の無教会主義も人格の独立ということが旗印でした。その独立の裏打ちをなし、支えをなすものこそ武士道でした。
彼は明治十七年、アメリカに留学し、アーモスト大学のシーリー総長の感化を受け、いわば正統のピューリタン主義というべきものが、内村の信仰でした。
彼は 「私の信仰の先生」 (大正十四年) という短い文章の中で、私は二人の父をもっている、という意味の事を書いています。
「私は肉体の父として日本武士道を有し、霊魂の父として、排日法を布く以前の、生粋の米国人を有ちし事を誇りとする」
と言い、明治四十一年刊の 『代表的日本人』 の序文の中で、自分の場合、武士道という精神的土壌が、接木における台木だった。その台木にキリスト教が接木された、という意味のことを書いています。

サムライが制度として消滅したあと、武士道をキリスト教精神によって理想化した人に、内村と札幌農学校で同級生だった新渡戸稲造 (1862〜1933) がいます。
彼はジョンズ・ホプキンス大学に留学して、クエーカー派の信徒になりました。この明治時代の官教育の場における教育者としての足跡の大きかった人物は、なによりも、 『武士道』 (明治三十三年刊) という英文の著書で小さからざる印象を世界の読書人に与えました。
日露戦争の講和に力を尽くしてくれたアメリカ第二十六代大統領セオドア・ルーズベルトの日本についての理解のよりどころは、新渡戸稲造の 『武士道』 だったといわれています。
「日本および日本人とは何か」
という説明を求められた時、明治人は武士道を持ち出さざるを得なかったのです。ではサムライとは何か、と問われれば、自律心である、ひとたびイエスと言った以上は命がけでその言葉を守る、自分の名誉も命を懸けて守る、敵に対する情。さらには私心を持たない、また私に奉ぜず公に奉ずる、ということでありましょう。それ以外に、世界に自分自身を説明することはなかったのです。そしてそれは、立派な説明でもありました。
すくなことも日露戦争の終了までの日本は内外ともに、武士道で説明できるのではないか、あるいは、武士道で自分自身を説明されるべく日本人や日本国はふるまったのではないか、と思います。
皮肉なことに、武士が廃止されて (明治四年の廃藩置県) 武士道が思い出されたといってよく、過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて明治の精神となったと思います。
ナマの武士というのは、つまらない人間も多くて、社会の穀潰しといった人も大勢いたはずです。それら、歴史上数千万の玉石を気体にしたのが、武士道というものでしょう。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ