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2007/03/28 (水) サムライの終焉あるいは武士の叛乱 @ 

日本に多いのは、昔も今も人口です。それは、水田の国だからでしょう。小麦の国だったなら、こうも人の数は増えなかったろうと思います。米と小麦を比べると、単位面積当りの穫れ高は圧倒的の米ですものね。
武士というのは、時代によって中身が違います。
十三世紀、鎌倉幕府を興して日本を武士の世にしたころの武士は、もともとは公卿の世の下にあった農場主をそのように呼んでいたというべきでしょう。熊谷次郎直実や那須与一の武者姿を思い出して下さい。
この十三世紀の鎌倉時代の人口は八百万人だったという計算があります。十四世紀の室町時代は米の生産高が飛躍したから一千万を越えようとしていたのではありますまいか。
室町時代は乱世だったはずですね。しかしながら荒地や河川の扇状地を開拓し、灌漑して水田にしたりして、新しい武装農民 (新しい中身の武士) がたくさん出てきました。
彼らの力が、世の中に新しい秩序を要求しましたが、なかなかそれに見合った新秩序ができず、ごたごたしました。
そのようにして、十四、五世紀の室町時代は、室町幕府という武家政権があったものの、統治力を大いに欠き乱世でありつづけました。
もっともそのくせ農業生産高がそれまでの歴史から大いに飛躍して高くなったという、まことにややこしい時代です。
その乱世である室町時代の末である十六世紀には、もはや戦国時代に入っていました。戦国の世は、十六世紀末までほぼ百年続きます。
「戦国の百年」
というのは、なし崩しの革命期とでもいうべき世でした。鎌倉以来の武家の名家のほとんどが滅び、武家の棟梁で、盛時は対外的に “日本国王” を称したこともある室町将軍家も有名無実の存在になりました。
日本六十余州に群雄が割拠し、それぞれの国で “大名” と称する者が出たのですが、その殆どは室町期の 「守護大名」 とは無縁の成り上がり者でした。
成り上がりといってばかにすべきものではなかったのは、彼らは日本政治史上最初の “民政” というものをやった人々なのでした。
室町期の守護も、その前の鎌倉期の守護も、さらにその前の京都の公卿による律令制度の国司も、民政らしい民政をしてはおりません。ただ租税を取るだけの存在でした。
民政らしい民政をおこなおうという大名のあり方を “領国大名” といいます。
その最初の人物が北条早雲 (1432〜1519) であったことは、異論のないところでしょう。
早雲は京都生まれで、京都文化を身につけた人物でしたが、一介の浪人として東国に下り、伊豆一国を自分のものにして、百姓に対し、何時に起きて何時にめしを食えといった類のことまで (たとえば幼稚園の保母さんのように) 世話を焼き、村落の規律や家々の暮らしの節度までを立たせ、さらには租税をできるだけ軽くし、生産量力をあげさせるようにしむけます。
目的は、伊豆の力を強くすることにあったとはいえ、とにかくも百姓が痒ければそこを掻いてやるというふうな政治で、また家臣団に対しても、細かく規律を立て、ついには 「早雲寺殿廿一ケ条」 よいう家訓までたてました。
彼の兵は強く、ついには関東一円を自分の版図におさめ、北条家は五代まで続きました。
北条早雲の領国に対する行政は模範的とも言うべきで、戦国の諸大名のこれを真似ました。
早雲の時代も含め、戦国時代は、武士は農村から出ました。武装せる農民といってよく、戦の無い時は農村に帰るのです。大名を頂点としてその軍制は組織化されていたとはいえ、本質は戦闘員なのか、農村のボスなのか、よくわからないところがありました。
高級な武士は、一ケ村から数ケ村を支配し、戦いの時には農民の中から兵卒 (足軽・小者) を選んで彼らを従えて戦場に出ました。
この存在は、十五、六世紀から二十世紀初頭までのドイツの東部に存在した地主貴族でるユンカーに似ていたかもしれません。
ドイツのユンカーの場合、それを無力な存在にしたのは、フランス革命による “国民国家” と徴兵制を背負ってヨーロッパを席捲した十八世紀のナポレオンでした。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ