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2007/03/27 (火) 廃 藩 置 県 --- 第二の革命 F 

さて、廃藩置県です。
ひと口に薩長といいますが、薩は保守、というよりも、日本で最も武士集団であるにふさわしい藩でした。久光ならずとも、これを壊してただの県にするには惜しいほどの藩でした。
この藩が革命的な行動を起こしたのは、一に西郷一個人の指導力・影響力に帰せられてもいいでしょう。ただ、中身は久光的でした。
長は、全く違います。信じ難いほどのことですが、長州藩は江戸時代、すでに内閣制を持っていて、また内閣の責任制、さらには藩主の象徴性という一連のものを持っていました。その面のみに限って言えば、明治憲法 (明治二十二年発布) を先取りしたような先進藩でした。
さらに幕末の長州藩は、平民からの志願で編成した奇兵隊および諸隊を持っていました。諸隊は、力士だけの隊、猟師だけの隊もあったのです。ですから一種の国民皆兵です。ということは、無階級社会に近いということです。むろん、萩城下には、三十六万九千石の藩士団がいました。
奇兵隊の存在は、存在そのものが萩におけるそういう旧社会に対する痛烈な批判でした。
幕末、奇兵隊を率いる高杉晋作 (1839〜67) のクーデターによって、萩の士族軍は大敗北してしまったのです。同時に萩の保守内閣も崩壊しました。そのあと、革命的な内閣が成立しました。その上で、戊辰戦争を戦い抜いたのです。
話は、わき道になりますが、戊辰戦争における長州奇兵隊の活躍はもことに華々しく、近代軍隊のにおいさえありました。
北越戦争。これは越後長岡藩家老河井継之助 (カワイツグノスケ) (1827〜68) が、薩長軍を迎えて戦った戊辰戦争の一局面でしたが、このとき長岡の侍は、奇兵隊と戦うのを嫌がったといいます。相手は百姓じゃないか、ということと、その百姓に首を取られるのは屈辱だという士族らしい気持ちです。奇兵隊はすでに自藩に於いては士族軍に勝ち、さらには戊辰戦争においては、各地の士族軍に勝ちました。

長州人山県有朋 (1838〜1922) 。これは、萩城下にあっては、武士とはとてもいえない階級の生まれです。足軽でさえなかったのです。中間の家でした。 “奴さんだよ” というあの奴さんでした。
その山県が、奇兵隊では軍監という副大正の役でした。
山県というのは嫌な奴だ。という悪口が、明治の末年になって、ささやかれました。官僚制度をつくり上げる名人で、人事統制がうまく、陸軍と官界を牛耳り、権力の権化のような印象でしたが、戊辰戦争の時の彼は三十歳、まことに思慮深く、やることが堅牢で、石垣を組み上げるようなやり方の男で、何事も山県に任せておけば間違いない、という評判がありました。
彼は、戊辰戦争が終ると、さっさと欧米視察に行っています。なかなかの機敏さで、明治三年八月に帰ってきた時には、かなり見るべきものは見ていました。
帰国とともに兵部省 (つまり陸海軍省) の兵部少輔 (ショウユウ) という局長のような職につきました。
山県は、国学の教養人で、その和歌の才能は当代一といっていいのですが、政治がわかる上に、実務の才があり、何から手をつけるべきかを知っていました。軍隊組織をヨーロッパ型にすること、そしてなによりも国民皆兵にすること。

そのためには、大前提がなければならない。
「廃藩置県」
これです。二百七十の藩が、侍という軍隊を握っているようでは、国防もなにもあったものではありません。しかし、源頼朝以来、六百七十数年続いた武家政治、家康以来、二百数十年続いた藩の制度は日本人の皮膚や内臓にまでなっています。それを解体する事ができるのか。
当時、兵部省のうち陸軍の予算は三十万石でした。三十万石、この当時、おカネで予算をたたていません。陸軍予算三十万石で何ができるでしょう。
大蔵省を担当する長州人の代表は井上馨 (1835〜1915) でした。彼にとって、新政府の財政は、とても財政なんてものじゃない、という実感でした。
新政府は、旧幕府の直轄領 (天領) を主とした八百万石の上にのっかているのです。八百万項は、玄米で入ってくるもの、畑税の税金だといって、天保銭や四文銭で入ってくるもの。それに各藩が藩札という紙幣を出しているのです。藩でしか通用しないのですが、そういう藩札まで入ってくる。財政となると、中央集権制、つまり郡県制をとらねばどうにもならない。自然、大蔵省の長州人たちも、廃藩置県説でした。
当時、廃藩置県で奔走したのは、二人の長州人でした。鳥尾小弥太 (コヤタ) という長州奇兵隊出身の兵部省の役人と、もう一人は野村靖 (ヤスシ) という松下村塾出身の外務省役人でした。
しかし長州の総帥木戸孝允はもとからの廃藩置県論者だし、東京の薩摩代表の大久保利通もそうでした。だからこそ大久保は、故郷の西郷から浮いていたのです。
それとは別に、新政府が軍隊を持たねばどうにもならない。そこで、薩長土の三藩が、あわせて一万人ほどの軍隊を献上することになりました。
そういうことで、薩摩軍は、藩主忠義を擁した西郷隆盛がこれを率いて海路東上します。彼が東京に入ったのは明治四年三月でした。六月に、新政府に乞われてやむなく木戸孝允とともに参議になりました。
前回で
---- 紀州の津田さんを頼もう。
と西郷が言ったのは、この時期です。
西郷は、このとき日本橋蠣殻町 (カキガラチョウ) の仮り住まいに、下男とともに住んでいました。
六月のはじめ、長州人・兵部少輔の山県有朋は、しの拳を握り固めたような顔でもって、この西郷の寓居を訪ねます。
山県は、廃藩置県の必要を、西郷に説こうと思って単身やってきたのです。西郷の声望は、薩摩藩を蔽っていましたから、西郷の協力がなければ、又、薩摩藩が諾といわなければ、無に帰します。しかし西郷は封建論者だと山県はきいている。
山県のような男でも、このとき、西郷が聴き入れなければ刺し違えの覚悟だったといいます。むろん、予告して訪ねたのではありませんから、先客がありました。しばらく一室で待たされました。お茶とカルカンが出たそうです。カルカンは、薩摩のお菓子です。
やがて西郷がしの巨体を運んできて、両者対座した。
山県は、話の面白い人間ではありません。その男が、咄々として、藩の廃止の必要と県の設置、つまり中央集権の必要を説いたのです。西郷は顔色も変えずにきいておりましたが、やがて、
「木戸の意見はどうか」
と、質問しました。山県は木戸の意見は十分知っておりましたが、どうこうと言わず 「まず第一番にこちらにご相談に来たのです」 といいました。
西郷は、ひとこと答えただけです。
「わたしンほ (私の方) は、よろしゅごわす (よろしい) 」
私の方というのは、薩摩藩のことです。薩摩藩としては異存が無い、ということですが、とんでもないことで、久光とその配下の者がいて、大反対している。
しかし西郷はいっさい余分なことはいわない。西郷の脳裡には久光の顔がいっぱいにあったでしょう。西郷はそれを押し殺したはずです。同時に死を決したはずです。その死も、死骸を八つ裂きにされるような死を思ったかもしれません。
山県にすれば、拍子抜けしました。西郷の返答がそれだけだったからです。ひょっとすると、なにか西郷が間違っているのではないかと思い。
「この問題は、血を見ねばおさまらぬ問題です。われわれとしては、その覚悟はせねばなりますまい」
というと、西郷はふたたび、
「わたしンほ (私の方) は、よろしゅごわんが (よろしいですよ) 」
といっただけだったといいます。

廃藩置県は、薩摩藩をも含めほぼ無血に終りました。
久光は大いに憤り、ふたたび、西郷を “叛臣だ” と、ののしりました。彼が、桜島を目の前にした海岸の別邸で、海岸に石炭船をつながせ、それで花火を打ち上げさせて、終夜それを見つづけたというのは、廃藩置県の報が伝わった夜でした。
怒りの表現としての大花火というのは、いかにも大名らしくて、なにやら芸術的にさえ思えます。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ