〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/26 (月) 廃 藩 置 県 --- 第二の革命 E 

問題は、
「藩父」
と呼ばれている島津久光にあったのです。
ついでながら、幕末の様々な人物の中で、その識見才能が第一等であるというのは、薩摩藩の前藩主島津斉彬 (1809〜58) でありましたろう。
西郷は、この人に見出され、家来というよりも弟子として薫陶を受けたのです。西郷は終生、亡き斉彬の遺臣であると自らを規定していました。
ところが斉彬は、安政五年夏に急死するのです。毒を盛られた問い噂がありました。島津家の奥にはお由良という、湯治の藩士の一部から “女狐” のように思われていた婦人がいました。斉彬の父斉興 (ナリオキ) の側室であるお由良が生んだのが、久光です。正室の子である斉彬にとって久光は庶弟にあたります。お由良は久光可愛さのあまり、久光を後継ぎにすべく様々に策謀したという過去があります。
大久保利通のちちなどは、お由良を除くべく運動して遠島に処せられました。西郷もまた彼の主君であり、師でもあった斉彬が急死した時、とっさにお由良のことを思ったのは当然だったでしょう。
斉彬の後、斉彬の遺言により、久光がの子である忠義が藩主になり、久光が “藩父” としてこれを後見します。久光は事実上の薩摩藩主でした。
西郷はその後、足掛け六年、島流になりますが、幕末の危機時代に藩に呼び返されます。
久光が西郷と対面した時、西郷の態度は久光に対して実にふてくされたものでsた。
西郷は明らかに久光を軽蔑していました。
「あなたの力量では天下のことはできません。兄君をまねようとしても無理です」
という意味のことを言うのです。
このとき久光はただ黙然とし、怒りを抑えかね、くわえていた銀のきせるを噛み、歯型が残ったといわれています。
西郷を憎悪したのです。久光は、自分の生母のお由良とそのとりまきが斉彬を毒殺した、という噂が存在するのをしりません。だから西郷において、自分に対する尊敬が見られないことW、久光は不快としました。
西郷は西郷で、内心、久光を、ひょっとすると主君の仇の片割れだと思っていたかもしれません。生涯そんなことは、おくびにも出しませんでしたが。
ようするに、両者はあわないのです。
ところが久光には、全藩を統御する力がなく、やむなく西郷を使わざるを得なかったのです。その西郷が、藩の力を使って倒幕をやってしまう。久光は、なまりの湯でも飲まされた思いだったでしょう。

困った事に、久光は、病的なほどの保守家でした。
幕府はそのままにせよ。藩は未来永劫である。薩摩の風は一切変えるな。チョンマゲは残せ。洋服は着るな。四民の別をきびしく立てよ。暦は太陰暦のままにせよ。 暦は、明治五年十二月に、太陽暦になるのです。これでは農事はできない、日本農業はつぶれるぞ。
それらの彼の思想は、明治六年に彼が献白した 「十四ケ条の建言」 とその 「注釈書」 によって見ることができます。
こういう人が、革命勢力の主力である薩摩藩の中心にいたのです。西郷と大久保が、いわばなだめすかしたり、事後承諾などの形で藩を倒幕まで持っていったのですが、その後は、もう久光を誤魔化す事ができなかったのです。
西郷が、新政府のある東京にいるわけにもいかなかったことが、これで理解できるはずです。
また正三位を貰うわけにもいかず、鹿児島に帰っても、山の温泉に出かけていって、犬を相手に兎を取っているしか仕方が無かった事も理解できるでしょう。
久光が、いわば足をひっぱって (具体的ではなかったにせよ) いたのです。

「西郷は、ついに叛臣のみ」
と、久光はしきりに言っています。西郷の耳にも入ります。西郷は死にたいくらいだったでしょう。西郷にとって、死ぬほどいやな言葉は卑怯ということと、不忠ということだったのです。彼が頭を坊主にしたのは、あるいは世を捨てたつもりだったのかと思えるのです。
久光は、自分の側近を藩政の要所々々にくばって、藩を強く握っていました。新政府の新しい方策は、すべて薩摩の藩境の内側まで入って来ないのです。薩摩の領内だけは、江戸時代が続いていました。滑稽な事でした。革命を起こした藩が、勝利者の権威によって、革命とは無縁に存在しつづけたのです。一枚のマンガでした。
ただ、そういう藩の藩内にも、新政府に同調して藩を改革しようとしている連中はいました。
久光はそれらを抑えきれず、再び西郷を用います。西郷はやむなく藩の最高官である “大参事” になりました。
新しい日本国をつくったはずの男が、一つの県の今で言うと副知事になったのです。
東京は薩摩におびえています。
日本最強の藩が、東京の命令を聞かないばかりか、新政府の棟梁であるべき男を一藩の大参事にしている、という薩摩藩というのが、東京の新政府にとって理解を超えた存在だったのです。
大久保がやきもきし、木戸が西郷を疑うのも無理は無かったのです。
「西郷は、封建制を復活しようとしている」
といううわさは、長州人の間で常識になっていました。まことに不気味なことでありました。外部の彼らは、島津久光という薩摩の癌の存在を十分に見ようとはしなかったのです。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ