〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/26 (月) 廃 藩 置 県 --- 第二の革命 D 

実をいうと、戊辰戦争が終ると、まだ山本や日高といった若い者は、たとえば相撲取りになろうというあんばいで東京をうろうろしていましたが、薩摩の総帥の西郷隆盛自身が、東京に留まらず、さっさと鹿児島に帰ってしまいました。東京には、盟友の大久保利通が残っています。
大久保は、西郷に対して、出て来い、と申し送りますが、西郷は出て来ないのです。
---- 無責任な奴だ。
と、大久保は腹を立てたに違いありません。討幕までは西郷は前進的でした。その精神も真っ赤に焼けた鉄のようで、同士の大久保との関係も、緊密そのものでした。討幕が終了すると、西郷はにわかに冷えた鉄のようになり、大久保を苛立たせます。 “東京政府” という大荷物を大久保に押し付けたまま故郷の山に帰ってしまうのです。
一見、躁鬱病者のようでした。大久保は、西郷のこういう躁鬱つねならざる態度を、西郷の死に至るまで怒り続けました。
西郷は西郷で、この時期からその死まで、大久保にハラを立てていたのです。
新政府の役人が、贅沢をし、権威を誇りすぎるということについてです。その代表に大久保がいる、と西郷は思っていたのです。
大久保は事実上の政府代表でしたが、贅沢なんかしていません。しかし質実な薩摩武士である西郷から見れば、大久保等が馬車に乗っているというだけでも、不愉快だったのでしょう。
明治維新に成功した西郷は、成功者でありながら、なにもかも不愉快でした。太政官による断髪令がでるのは、明治四年九月です。明治二年に西郷が鹿児島に帰ったころは、世間一般はまだチョンマゲがつづいていました。坊さんは当然ながら頭を丸めています。西郷も坊さんのように頭を丸めてしまったのです。
思い切ったことです。ひょっとすると、気分だけは、世間と断つというということだったのかもしれません。
鹿児島にいる伊地知正治 (イジチマサハル) (1828〜86) は西郷より一つ歳が下で、目と脚の不自由な人ですが、その薩摩流の兵学の造詣については西郷が早くから高く評価し “伊地知先生” と呼んで尊敬しておりました。この人が鹿児島における西郷の近況について東京の大久保に書き送った手紙の中で、
「西郷入道先生」
と、ユーモラスによんでいます。
“もう、五十日も湯治に出かけていて、姿を見ない。いつも犬、四、五匹を連れている” というのです。
西郷はワナを仕掛けての兎狩りが大好きでした。この時期の西郷が、東京上野公園の西郷の銅像でしょう。ツンツルテンのキモノに、草履、そして犬。銅像が出来た時、西郷夫人が、
「ンだも (あらまあ) ン やどんし (うちの人) は、こげな (こんな) お人じゃなかったのに」
と、嘆いたそうです。
西郷という人は服装のきちんとした人で、未亡人がもっともそれをよく知っていたのでしょう。
しかし、この明治二年、西郷の状態は、頭の飾りまで取ってしまって、いかにも上野の銅像のようでした。

西郷という人は、幕末、討幕の為にずいぶん権謀術数をめぐらした人ですが、その本質は、多分に哲学的で、高士とか仁者 (同時代の政府派薩摩人黒田清隆のことば) といった範疇に入る人だったのでしょう。
むろん、西郷には政略はわかりすぎるほどわかります。維新後、それを用いなかっただけです。
たった一つ用いた事があります。
栄爵を受けなかった事です。新政府は、明治二年六月、戊辰の功績のあるものに対して位階と賞典禄を与えました。西郷が、ただ一人最高でした。正三位で、二千石というものです。正三位といえば、江戸時代でいえば、大大名の位階であります。この時期、なお薩摩藩は存在しています。その藩主島津忠義さえ、一つ下の従三位なのです。位階は宮中序列でもありますから、宮中に出るようなことがあれば、西郷は主君より上位にならざるを得ません。西郷には、堪え難いことでした。西郷はすぐさま薩摩藩主を通じて、辞退しました。しかし新政府がそれを許さなかったため、怒りを込めた書簡を出しています。
「主君より上というのは、情義として忍びがたい。それに、位階というのは官職を持つ者に与えられるのに、自分は何の官職も持たない野人である。とにかく要らないというものを無理に押し付けられるのは、片腹痛い」
この時期の西郷には、彼のアキレス腱に痛烈に矢が突き立っていることを、たいていの西郷論者は気づいていないようです。むろん、同時代の人々も、西郷がそのことについて一言半句も洩らした事が無かったため、気づかなかったのです。西郷は自分の最大の痛点については沈黙しつづけていました。

ついでながら、この時代の薩摩藩の気風というのは、大変口が固く、藩内の弱点というものを外部に洩らしませんでした。
薩摩、ことに西郷の新政府に対する動き方や無関心ぶりの憤っていたのは、長州の代表格の木戸孝允でした。木戸という人は心のきれいな人なのですが、ちょっとヒステリックなところがあります。
彼は “長州だけつねに火の粉をかぶり、薩摩はいつもいい子になっている” とか “薩摩というのは肚が黒い。少なくとも腹の底のわからない行動をする” といった意味の事を愚痴りつづけていた人でした。
その木戸が、あるとき、たれか薩摩人から内情をはじめて聞かされたのでしょう、
「そうだったのか、自分は西郷という人の政治的行動や表現がよくわからなかったが、そいいうことなら、全て理解できる」
という意味のことを述懐したと言われいます。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ