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2007/03/26 (月) 廃 藩 置 県 --- 第二の革命 C 

さて、廃藩置県です。クーデター、あるいは第二の革命ともいうべきこれほどの政治的破戒作業 (無論、建設を伴いますが) が、被害を受ける (抹殺されるという被害です) 大名の側に一例の反乱もなく行われたのが、不思議なほどでした。
廃藩置県のような無理が通ったのは、幕末以来、日本人が共有していた危機意識のおかげで下。
幕末以来、日本が侵略される、とか、植民地にされる、亡ぼされる、という共通の認識とか恐怖がいかに深刻だったか、またその即物的反発としての攘夷感情、その副産物としての日本国意識 (国家を、破片の藩として見ず、日本国全体を運命共同体としてみる意識) がいかに強かったか、そういう一国を覆いつくしている共通の感情を考えねば廃藩置県は理解できません。
だから無数の被害者達、それも武力を持った被害者達が、頭を垂れて黙々とこれに従ったのです。それを思うと、当時の日本人たちに、私は尊敬とともに痛ましささえ感じるのです。

じつを言うと、戊辰戦争で、新政府軍が (実質は薩長土肥とその同調の諸藩) 勝った後、しばらく虚脱状態に似た、勝利者達が野原でぽかんと青空を眺めているような時間が、二、三年続きました。何をしていいのかわからない。 “維新の虚脱” と名付けてよいかと思います。
第一、中央政府などといっても実体が誠に希薄でした。
職員は、各藩から出向藩士です。とくに新政府が京都御所にあった時は、一文も無いので、京都での新政府は本願寺などから献金を集めてその日暮らしをしていました。
戊辰戦争などといいますが、新政府に軍隊があったわけではなく薩長土肥の軍隊の持ちよりで、そのオーナーは、各藩主でした。
軍費さえ新政府になく、薩長土肥においてそれぞれ十万円ずつ醵金して出かけたのです。また三井組、小野組などの豪商を脅して、彼らから借金をしました。明治元年から四年までに彼ら豪商から借りた金は六百九十三万円でした。それはむろん、数年して紙幣の形で返しました。紙幣というのは印刷物です。押し付けたのです。彼らは嬉しくなかったでしょう。
政府の根拠をなすものは、なんといってもカネと軍隊です。それが新政府にはない。
軍隊の方は、戊辰戦争が終って東京に凱旋しますと、それぞれの国へ帰ってしまう。明治二年ぐらいの段階で、東京に残っていた軍隊というのは、長州兵一個大隊だけだったという資料もあります。まことに革命政府らしからぬ、嘘のような話です。

この間のことで、ちょっとした人間的な情景を申しあげます。
薩摩の人山本権兵衛 (1852〜1933) 。この人は明治海軍の建設者で、プロ野球風に申しますと、名オーナーというべき人でした。日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦は、パーフェクト・ゲームでしたが、そういうふうに綿密に建設し、計画し、さらには名人事をおこなったという点で、巨人としか言いようのない人です。
彼が、戊辰戦争で、陸軍の兵士として東北などを転戦した時は、満年齢で十六歳ですから少年兵というべきせしょう。同伴の友達に、日高壮之丞 (1848〜1932) という人がいて、仲良しの戦友でした。この日高も後に海軍に入って海軍大将になります。
この二人が凱旋して東京に帰ってきますと、藩兵は解散です。凱旋と同時に失業です。何をして食っていっていいかわからず、いっそ相撲取りになろう、と申し合わせました。
相撲は、今でこそ国技として大変なものですが、当時の社会通念として、武士の家に生まれた者が相撲取りになるなど考えられません。が、この二人は食ってゆく道はそれしかない、と思い、陣幕という関取を訪ねます。
陣幕久五郎 (1829〜1903) 第十二代の横綱です。この人は出雲の人ですが、大変強かったものですから、大名の抱え力士になりました。お抱えというのは、ひいきという以上の意味があります。安政年間で阿波の蜂須賀候、ついで出雲の松平家、幕末では薩摩の島津家のおかかえでした。相撲好きの西郷隆盛がこの人を愛して、両者の友情は一幅の山水画のようだったといわれています。ですから山本権兵衛らは、陣幕をよく知っていたのです。
陣幕は弟子入り志願の二人に武士を見て、
「あななたたちは、だめだ」
と、出雲なまりの関取言葉で断ってしまいました。相撲で伸びてゆくには、日常ゆっくり頭の回る者がいい、あなたたちを見ていると、四方八方頭が回る過ぎる、力士として決して伸びない、というのが、理由でした。
この挿話は、いくつかのことを想像させます。
薩長人なら大いに出世したろうというのは後世の感覚で、戊辰戦争終了直後 (つまり先に使った “虚脱状態” ) の中にあっては、山本青年や日高青年といった尋常以上の才能と気概を持った青年でさえ、身をどこへ託すべきか (どう食ってゆくべきか) を知らなかったのです。
たまたま彼らは、築地に海軍兵学寮 (のちの兵学校) が開校されましたことを知り、身を立ててゆく道としてそこへ入ったのです。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ