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2007/03/26 (月) 廃 藩 置 県 --- 第二の革命 B 
さて、明治四年の廃藩置県を語らねばなりませんが、もう少し士族の没落と、そこから個々で彼らがなんとか這い上がって行く事例にふれたいと思います。
『荒城の月』 の作曲者である滝廉太郎 (1879〜1903) のことです。
ご存知のように、滝廉太郎は、日本の近代音楽の歴史の中で、最初の作曲家と言うべき人で、天才としか言いようがない、というのが、定説のようです。
ただその生涯はわずか二十三年と十ヶ月、肺結核によって世を去りました。ドイツ留学時代の写真を見ますと、日本人にしてはやや長身、それに痩躯、まことに端正な、いい顔立ちの人ですね。
豊後、つまり大分県の出身です。別府湾が大きく割れこんでいる、その北岸に、日出 (ヒデ) という小さな町があります。
江戸時代、木下二万五千石の小さな城下町でした。城持ち大名としては最少の藩でした。城というのは別府湾の崖を利用して築いたもので、小規模ながら、古風な石垣を持っています。野面積みという荒々しい積み方です。かっては三層の黒っぽい天守閣もあったのですが、廃藩置県の後、新政府によって壊されました。不平士族がこれに拠って反乱することを恐れたのです。
本丸は崖の上にあって、その下はいきなり海です。その崖下に集まるカレイが 「城下カレイ」 と呼ばれて、フグの刺身のようにして薄切りにするとうまいということで、よく知られています。
滝家は、廉太郎の祖父の代から、この小さな大名の仕置家老 (門閥でなく能力を買われてなって家老) でした。
石高は二百石、小藩の二百石ですから、大したものです。廉太郎の父の吉弘は有能な実務家で、新政府からその能力を買われて、大蔵省、内務省の下級官吏になり、のち県に出向し、晩年は故郷の大分県に帰り、竹田の町に住んで郡長をつとめておりました。
維新によって没落を免れただけでなく、なんとか世を渡っていったほうに属します。廉太郎が音楽のような分野にゆけたのも、こういう家に育ったからでしょう。

彼が、幼年期と少年期を過ごした豊後の竹田城は、岡城とも呼ばれていて、城郭研究をする人々に評判のいい城です。溶岩台地をくり抜いたような小盆地の中に、城も城下町もあります。この城も廃藩置県のあと、明治政府が恐れて取り壊してしまいました。惜しい事でした。戦国期に摂津 (大阪府) にいた中川という七万石の大名の城で、その規模と堅牢さは三十万石の大名の城だといわれたものでした。
天守閣は三層でしかありませんが、櫓がまことにゆゆしげです。とくに月見櫓という印象的な名前の櫓があります。滝廉太郎が作曲した 『荒城の月』 は、仙台出身の英文学者土井晩翠の作詩で、その代一節が、 「春高楼の花の宴、めぐる盃かげさして、千代の松が枝わけいでし、昔の光いまいずこ」 とありますが、滝廉太郎の子供のころ、月見櫓はしでに取り壊されて存在しなかったとはいえ、彼が土井晩翠のこの詩を読んだとき、その脳裡に湧くように現れたのは、豊後竹田の古城だったのでありましょう。
さらにいえば、東北人である土井晩翠のイメージにあった荒れにし城とは、故郷の仙台の青葉城よりもむしろ、旧制二高生のときに訪れた会津若松の鶴ケ城であったと晩翠は回想しています。
戊辰戦争の時、佐幕派代表のような貧乏くじを引いて戦った鶴ケ城とその侍どもの拠り処こそ、荒城の名にふさわしかったのかも知れません。
この詩人と音楽家の想念にあらわれた “荒城の月” は、いずれも、明治四年の廃藩置県の後の数年の間に壊された城どもであります。
日本人は、ながい江戸時代、二百数十に割拠していた藩とともに生きてきました。その時代は、廃藩置県により、城々とともに去りました。

滝廉太郎は、東京麹町の尋常小学校を出、十四歳とともに一家をあげて竹田に移りました。そして、竹田の高等小学校に入ったのです。
すでに滝少年はヴァイオリンをもち、アコーディオンをもっていました。また学校備え付けのオルガンを弾くことは、滝にのみ許されていました。
十六歳という最少年齢で東京音楽学校 (東京芸大) に入り、二十二歳明治三十三年、研究科のときにドイツ留学を命ぜられます。
それより少し前、東京音楽学校は 「中学唱歌」 の編集を企て、先ず作詩を文学者達に依頼し、出来上がった作詩を学校の責任のもとで作曲したのです。
『荒城の月』 の作曲は、研究生滝廉太郎に命ぜられました。
彼の留学先は、ライプッチヒの音楽学校でした。この町は、今は東ドイツに属し (1989年当時) 中央ドイツ最大の都市で、市内には古い城壁の一部が残っています。
かれは、、この中央ドイツの都市の下宿で、学校関係の人か、あるいは下宿の女主人か、いずれにせよドイツ婦人に求められて 『荒城の月』 をひき、感心させたといわれます。異境の地で、しかもその翌々年に死ぬ身で、異境の町で、一婦人をただ一人の聴き手として 『荒城の月』 をひいていた情景を思うと、胸が詰まりそうになります。
このくだりは、滝廉太郎を語るのが目的ではないのでが、彼もまた廃藩置県によって全国的に陥没した武士階級の出身である事は間違いなく、彼が作った曲に、その階級の象徴である城への思いが込められていなかったとする方が不自然だというものでしょう。
『荒城の月』 は 「天上影は替わらねど栄枯は移る世の姿」 という詞がありますが、旧藩時代への挽歌、悼歌、哀傷歌、もしくは廃藩置県前後の鎮魂の歌とみていいのかもしれません。
『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ