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2007/03/25 (日) 廃 藩 置 県 --- 第二の革命 A 
明治期、その若い晩年、病床にありながら俳句・短歌の革命をした正岡子規 (1867〜1902) は、幕末ぎりぎりの慶応三年の生まれです。
伊予松山藩十五万石の藩士正岡隼太 (ハヤタ) の長男でした。隼太は士分のぎりぎりの最下級の大小姓という身分で、家禄はわずか十四石でした。それでも、明治八年に一時金千二百円を貰っているのです。当時としては大きな金です。
もらった時父隼太は死没していて、子規が少年の身ながら家督を継ぎ、幼くして当主でした。
この千二百円は、母方の実家が管理してくれました。子規が東京の大学在学中までこの金は続きました。が、子規が新聞社に勤めるや、母と妹がたまりかねるようにして東京に出て同居します。もう金は尽きていたのです。
廃藩置県後の子規の家は、じたばたせずに、子規が収入を得身になるまで、その母と妹は、貧しさに耐えるという暮らし方をとりました。
子規が少年の頃、漢学を学んだ同藩の土屋久明という旧藩士がいました。この人も、なにもせず、“ 家禄奉還金” と呼ばれた一時金を、食いつぶした上で、覚悟の餓死を遂げたといわれています。
久明は常々 “殿様から頂戴したお金が尽きるまで生きる” といっていたそうで、その餓死は、いかにも武士らしい死に方だと思います。
同じ藩士でも、子規の家はまだ高等官 (つまり士分) だったから一時金もなかなかのものだったのですが、のちに日露戦争に登場する秋山好古 (ヨシフル) (1859〜1930) 真之 (サネユキ) (1868〜1918) の兄弟の生家秋山家は、お徒士 (カチ) という、いわば下士官の家で、石高はわずか十石、奉還金は千円にも満たなかったといわれています。
ただ当主に父敬が多少学問のある人だったので、県の学務課に職を得、下級職員としてわずかでも給料を得ていたものですから、餓死をまぬかれました。
しかし子供の学費までは出せませんでした。このため好古は、明治七年に開校された松山中学校入ることができませんでした。中学生年齢のころ、好古は銭湯の風呂焚きをしていました。その銭湯というのも、戒田という旧藩士が開業した風呂屋で、風呂焚きの日当は天保銭一枚という安さでした。もっともこの天保銭は本を買うためのもので、家に生活費として入れるというほどには秋山家は窮迫していませんでした。
その後、好古は、師範学校から陸軍士官学校へと授業料および食費の要らない学校へ進みます。
好古が陸軍中尉になったに、弟の真之を東京に呼んで大学予備門に通わせます。真之は正岡子規とともに東京大学のジュニア・コースに入るのですが、好古は、途中、当時築地にあった海軍兵学校に転校させるのです。兵学校は、授業料その他が無料だったからです。

私は彼らの事歴について語っているのではありません。
廃藩置県で、いかに士族が窮迫したかをお話しているのです。さらには、士族の子弟はみずからを救済する道として、学校を選んだことに注目したいと思います。
日本人の学校好きというのは、江戸時代よりも、廃藩置県後の士族 (国民の7パーセント) という階層の共通した癖 (ヘキ) でありました。 “勉強すれば食える” という不思議な信仰が、彼らの活力源でした。
秋山家の場合、弟の真之が生まれた時、両親が “とても食えないから、お寺にでもやってしまおう” と話しているのを、すでに十歳になっている好古が耳にし、両親に、 「うちが勉強してな、お豆腐ほどお金をこしらえてあげるぞな」 と言ったと言われています。勉強すれば、なんとか食ってゆけるというのは、十歳の子供にまで浸み込んでいたのです。
こういう気分のせいで、1920年代のはじめ (大正時代いっぱい) ぐらいまでの日本の官界・学界といった学歴社会は、ほとんど士族出身者で占めていました。その理由は、士族には学問をするという、家中の個々の文化があったこと、廃藩置県によって、勉強をして学校へ行く以外に自分を窮状から救い出す道がないとされたことから来るエネルギーだったのでしょう。
これが大正の末期ぐらいになって、ようやく農家に影響しはじめたと見てよいと思います。
そういう意味における限りの “江戸時代” は、大正になって終ったのです。
このように社会における多数の層が学問をするという現象は、ヨーロッパにもなく、中国や朝鮮にもありませんでした。
中国・朝鮮では、天才的な人だけが科挙の試験を受けて、貴族としか言いようのない身分を得ます。
日本の場合は、そんな大そうなものではなく、だだの人が勉強する事によって、教員になったり、県庁の役人になったりすることを願うのです。
中国の場合、王朝時代から近代さらに今に至るまで、伝統的に中間管理職が不足している社会で、今でのそのことに中国は困っていますが、日本の場合、いまなお昼間管理職で充満している社会だということからみても、右の事情となにか符合します。
『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ