〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/12/29 (土) 彼 の 人 ・ こ の 人 (五)

一歩 ──
(シキイ) を踏んで出た武蔵には、今朝はもう何も頭になかった。
多少の思いは、皆、真っ黒な墨にこめて、白紙の上へ、一掃の水墨画として吐いてしまった感じである。 ── その画もわれながら、今朝は気持ちよく描けたと思う。
そして、船島へ。
潮にまかせて、渡ろうとする気持ちには、なんら常の旅立ちと変わったところはなかった。今日彼処へ渡って、再びこの岸へ帰れるか、帰れないか。今の一歩一歩が、死の府へ向かっているのか、なお、今生の長い道へ歩んでいるものか ── そんなことすら思ってもみなかった。
かつて二十二歳の早春、一乗寺下り松の決戦の場所へ、孤剣を抱いて臨んだ時のような ── ああした満身の身の毛もよだつような悲壮も抱かなければ感傷もない。
さればといって、
あの時の百余人の大勢の敵が強敵か。今日のただ一人の相手が強敵かといえば、烏合の百人よりもただ一人の佐々木小次郎のほうが、遥かに惧るべきものであることは勿論だった。武蔵にとっては生涯またとあるかないかの、今日こそは大難に違いなかった。一生の大事に違いなかった。
── が、今。
自分を待つ佐助の小舟を見て、何気なく急ぎかけた足元へ、自分を先生と呼び、また、武蔵どのと呼びかけて、転び伏した二人の者を見ると、彼の平静な心は、一瞬、揺れかけた。
「おお・・・・権之助ではないか。ばば殿にも。・・・・・どうして此処へは?」
不審そうにいう彼の眼の前に、旅垢にまみれた夢想権之助とお杉ばばとは、浜砂の中に埋まるように坐って、手をつかえていた。
「今日の試合。一期のお大事と存じまして」
権之助のことばに次いで、ばばも言った。
「お見送りにのう。・・・・・そしてまた、わしは其方に今日までの詫言をしに来ました」
「はて、ばば殿が、この武蔵に詫言とは」
「ゆるしてたも!・・・・武蔵どの。長い間の、ばばが心得ちがいを」
「・・・・・えっ?」
むしろ疑うばかりに、武蔵は彼女のそういう面を見守って、
「ばば殿、それはまた、どういう気持ちでわしへ仰るのか」
「何もいわぬ」
ばばは胸に、両掌を合わせて、今の自分の心の相 (スガタ) を、象 (カタチ) に見せた。
「── 過ぎ来し方の事々。一つ一ついうたら、懺悔申すにも懺悔しきれぬ程あるが、すべてを水と流してたも。武蔵どの、ゆるしてたも。皆・・・・子ゆえに迷うたわしの過ちであった」
「・・・・・・」
じっと、その相を見入っていた武蔵は、あな勿体なしといわぬばかりに、遽に膝を折って、ばばの手を取って伏し拝み、しばらく顔も上げ得なかったのは ── 胸もつまって涙がつきあげそうになって来たからであろう。
ばばの手もわなわなふるえ、彼の手も微かに戦いていた。
「ああ、武蔵にとって、今日はなんたる吉日でしょうか。それ聞いて、今死ぬも、惑いなき心地がしまする。はっきりと、何か真実のものが観て取れた欣び ── ばば殿のおことばを信じまする。そして今日の試合には、一層、すがすがしい心で臨めると存じまする」
「では、ゆるして下さるか」
「なんの、左様に仰せられましては、武蔵こそ、遠い以前にさかのぼって、ばば殿の前に幾重にもお詫びせねばなりませぬ」
「・・・・欣しや。ああこれで、わが身は心まで軽うなった。じゃが、武蔵どの、もうひとり世にも不愍な者、ぜひにも、其方に救うてもらわなばなりませぬぞい」
ばばは、そういって、武蔵の眼を誘うように、振り向いた。
── と見れば、彼方の松の木陰に、さっきからじっとうずくまったまま、顔も上げずに咲いている露草のような、弱々しい女性の姿があった。

── いうまでもない。それはお通であった。お通は、遂に、ここまで来た。遂に来たという姿であった。
手に市女笠を持って。
杖と、病を持って。
なお、燃ゆるばかりのものを抱いていた。その烈しい炎の如きものもしかし、驚くばかり窶 (ヤツ) れた肉体に抱かれていた。
武蔵が見たとたんにも、真っ先にそれをはっと感じた。
「・・・・ああ。お通・・・・」
凝然と、彼は彼女の前に立っていた。そこまで、黙々と運んで来た脚をすら忘れていた。彼方に置き残された権之助もばばも、わざと寄って来なかった。むしろ身を消して、この浜辺を、彼と彼女との二人だけのものにしてやりたい気持ちすら抱いた。
「お通・・・・さんか」
それだけの嘆声が、武蔵にも精一杯の言葉だった。
この年月の空間を、単なる言葉でつなぐには、あまりにも多恨であり過ぎた。
しかも、唐にも語るにも、今はそうしている時刻の余裕すらも既にないのである。
「からだが快くないようだが・・・・。どんなだな」
やがていった。ぽつりと、前後もない言葉だった。── 長い詩のうちの一句だけを摘んでつぶやくように。
「・・・・ええ」
お通は、感情に咽て、武蔵の面へ、眸さえ上げ得なかった。
が、生別となるか死別となるか、この大事な一瞬を、徒らに取り乱したり、空しく過ごしてはならないと、自ら誡めているらしく、じっと、理念の中に、自分を務めて冷ややかに守っていた。
「かりそめの風邪か。それとも、もう永い煩いか。どこが悪い?・・・・そして近頃は何処に。どこに身を寄せておるのか」
「七宝寺に、戻っております。・・・・去年、秋の頃から」
「なに、故郷に」
「・・・・ええ」
初めて、彼女の眸は、武蔵をじっと見た。
深い湖のように、眼は濡れていた。睫毛は、からくも溢れるものを支えていた。
「故郷・・・・・。孤児 (ミナシゴ) のわたくしには、人のいう故郷はありません。あるのは、心の故郷だけです」
「でも、ばば殿も、今では其女にやさしゅうしてくれる様子。何よりも、武蔵は欣しい。静かに病を養って、其女も幸せになってくれよ」
「今は、幸せでございます」
「そうか。それを聞いて、わしも少しは安んじて行かれる。・・・・お通」
膝を折った。
ばばや権之助の人目を感じるので、彼女は居竦んだまま、よけい身をちじめたが、武蔵は誰が見ていることも忘れていた。
「痩せたなあ」
と、掻き抱かぬばかり、背に手をのせて、熱い呼吸を弾ませている彼女の顔へ顔を寄せて、
「・・・・ゆるせ。ゆるしてくれい。無情 (ツレナ) い者が、必ずしも、無情 (ツレナ) い者ではないぞ、其女ばかりが」
「わ、わかっております」
「わかっているか」
「けれど、ただ一言、仰って下さいませ。・・・・つ、妻じゃと一言」
「分かっておるという口の下に。 ── いうては、かえって味ないもの」
「でも・・・・でも・・・・」
お通はいつか、全身で嗚咽していた。とつぜん、懸命な力で、武蔵の手をつかんで叫んだ。
「死んでも、お通は。 ── 死んでも・・・・・」
武蔵は、もくねんと、大きく頷いて見せたが、細くて恐ろしく強い彼女の指の力を、一つ一つもぎ離すと振り退けるようにして、突っ立った。
「武士の女房は、出陣に女々しゅうするものではない。笑うて送ってくれい。・・・・・これ限りかも知れぬ良人の舟出とすれば、なおさらのことぞ」

傍らに人はいた。
けれど、二人のわずかな間の語らいを、さまたげる者はいなかった。
「── では」
武蔵は、彼女の背から手を離した。お通はもう泣いていなかった。
いや、強いて、微笑んで見せようとさえしながら、わずかにやっと、涙を怺えとめて、
「・・・・・では」
と、同じ言葉で。
武蔵は起つ。
彼女も、よろりと、起った。 ── 傍らの樹を力に。
「おさらば」
いうと、武蔵は、大股に浜辺の水際へ向かって歩みだした。
お通は・・・・・喉まで突き上げて来た最後の言葉を、その背へ、遂にいえなかった。なぜならば、武蔵が背を向けた弾みに、
(もう泣くまい)
と、していた涙が、滂沱 (ボウダ) となって、武蔵の姿すら見えなくなってしまったからである。
岸に立つと、風がつよい。
武蔵の鬢の毛を、袂を、袴のすそを、潮の香のつよい風が颯颯と撲って通った。
「佐助」
そこにある小舟へ呼ぶ。
佐助は、初めて振り向いた。
さっきから、彼は武蔵の来たことを知っていたが、わざと、小舟の中で、あらぬ方へ、眼をやっていたのだった。
「お。・・・・・武蔵様。もうよろしいのでございますか」
「よし。舟を、も少し寄せてくれい」
「ただ今」
佐助は、繋綱 (モヤイ) を抜いて、その棹で、浅瀬を突いた。
(ヒラ) ── と、武蔵の身が、その舳 (ミヨシ) へ跳び移った時である。
「── あっ。あぶない、お通さんっ」
松の陰で、声がした。
城太郎である。
彼女と共に、姫路からついて来た青木城太郎だった。
城太郎も、一目、師の武蔵に ── と志して来たのであったが、最前からの様子に、出る機 (シオ) を失って、樹陰のあたりに、やはりあらぬ方へ眼をやったまま ── 佇んでいたものらしかった。
ところが今、武蔵が、脚を大地から離して、舟の人となったかと見えた途端に、何思ったのかお通が、水へ向かって、まっしぐらに駈け出したので、城太郎は、もしやと直ぐ気をまわして、
(あぶない!)
と、思わず、追いかけながら叫んでしまったものだった。
彼が、彼一人の憶測で、あぶないと怒鳴ったために、権之助も、ばばも、すべてがお通の気持ちを、咄嗟に穿き違えたものらしく、
「あっ・・・・どこへ」
「短慮な」
と、左右からあわただしく駈け寄るなり、三人して、確と、抱き止めてしまった。
「いいえ、いいえ」
お通は、静かに顔を振ってみせた。
肩で、息こそ喘いでいるけれど、決して、そんな浅慮な事を ── と笑ってみせるように、抱き支えた人々へ、安心を乞うた。
「どう・・・・・どうしやるつもりか・・・・・?」
「坐らせてくださいませ」
声も静かである。
人々は、そっと手を離した。するとお通は、波打ち際から遠くない砂地へ、折れるように坐った。
しかし、襟元も、髪のほつれも、きりっと直して、武蔵の舟の舳 (ミヨシ) へ向かい、
お心置きなく・・・・・・行ってらっしゃいませ」
と、手をつかえていった。
ばばも坐った。
権之助も ── 城太郎も ── それに倣ってぴたと坐った。
城太郎は遂に一言も、この際を、師と語ることもできなかったけれど、その時間だけ、お通に分け与えたのだと思うと、悔やむ気持ちは少しも起こらなかった。

吉川英治全集 『宮本武蔵 (四) 』 著・吉川 英治 発行所・講談社 ヨ リ