〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/23 (金) 徳川国家からの遺産 D 

寄り道が長かったようですな。
小栗上野介の話です。
彼は、前に述べた横須賀の巨大なドックの施行監督に、幕臣の栗本瀬兵衛を選びました。
歴史の中で、友情を感ずる人物がいますが、栗本瀬兵衛などはそうですね。いい男です。
幕府の御医師の子で、幕臣きってのフランス通でした。横浜開港後は主として外務国事をあつかい、外国奉行になったりしました。幕府瓦解後は、官に仕えず、新聞記者として終始しましたが、和漢の学問・教養は明治初年第一等の人物です。風貌は天才肌でなく、豪放磊落、およそ腹に怪しき心を持つという所がなく、直参が生んだ武士的性格の代表者ともいうべき人物でしょう。彼は生涯、勝ぎらいで通しました。明治後、栗本鋤雲 (ジョウン) の名で知られています。
横須賀ドック工事の目鼻がついたある日 (栗本の書いたもの “匏庵遺稿 (ホウアンイコウ) ” によれば、元治元年十二月中旬のよく晴れた風の激しい日だったようです) 大男の栗本が横浜税関を出て、官舎に帰ろうとしていると、背後に馬の蹄のとどろく音がして、二騎駆けて来ます。横須賀を検分して帰りの小栗上野介で、
「やあ、瀬兵衛殿、よくなされたな、感服、感服」
と、声を張り上げた。栗本の仕事を誉めたのです。
私は小栗の言葉を言いたくて、えんえんとここまで喋ってきたわけなのです。

あのドックが出来上がった上は、たとえ幕府が滅んでも、 “土蔵付き売家” という名誉をのこすでしょう。
小栗はもはや幕府は滅びてゆくのを、全身で悟っています。貧の極で幕府が滅んでも、あばら家が倒壊したのではない、おなじ売家でも、あのドックのおかげで、 “土蔵付き” という豪華な一項が付け加えられる、幕府にとってせめてもの名誉じゃないか、ということなんです。
小栗は、次の時代の日本にこの土蔵が (横須賀ドクが) 大きく役立つ事を知っていたし、願ってもいたのです。
小栗は、
「明治の父」
であるという言い方は、ここにおいて鮮やかに納得できると思います。このドックは、明治国家の海軍工廠になり、造船技術を生み出す唯一の母体になりました。
小栗のことを、もう少しふれておきましょう。
小栗は、徳川国家の為に身を粉にして働きました。
彼は栗本にこういうことも言っています。
「両親が病気で死のうとしているとき、もうだめだと思っても、看病の限りをつくではないか。自分がやっているのはそれだ」
この言葉を、明治二十年代、福沢諭吉は栗本から聞いて、さきの 「痩我慢の説」 の中で、自分の言葉として使っています。福沢にすれば、暗に勝にあてこすっています。勝がやった江戸開城というのは、あの病人はもう駄目だから放っておく、という立場だ、というわけです。是非を言っているのではなく、福沢は人間の “情” について語っているのです。
ここで私に意見を挟みますが、私はそれでも、勝は好きなんです。これは私の余計な呟きですが。
ここでは、小栗のことを述べねばなりません。
江戸開城の前夜、小栗は主戦派でした。
主戦派がいいとか悪いとかではありません。小栗の心映えというものは、じつに三河武士らしいということを言っています。
彼は、薩長から挑戦されてなぜ戦わずして降伏するのか、戦って、心の花を一花咲かせるべきではないか。福沢の言う 「痩我慢」 であります。

小栗の作戦はこうです。
薩長軍 (新政府軍) は、長蛇の行軍隊形をつくって東海道を東へ東へと進み、箱根を越えて、関東平野に入ります。その行軍中の部隊を静岡県下の東海道でもって、寸断してしまう。その方法は、日本最大の艦隊を持つ徳川方が、駿河湾に海軍兵力を集め、艦隊で東海道を射撃しつづけるのです。ある程度の新政府軍は無事に通過させる。半ばあたりから、これをやるのです。無事通過した新政府軍を、関東において袋の鼠にしてやっつけてしまう。
あとで、新政府軍の総司令官である大村益次郎が (この人は新政府軍唯一の名将だった人です) これを聞いて “もし徳川方がこれを実施すれば大変な事になっていたろう” と言ったといいます。おそらく歴史は違ったものになっていたでしょう。
ところが、そうならなかったのは、最後の将軍である徳川慶喜が主戦論をとらず、むろん小栗の案を退け、恭順、つまり一切手向かわないという方針をとり、すべてを勝に任せ、水戸へ去ったからです。
決戦か降伏かという評定の席で、小栗は主戦論を説き、立ち上がろうとする将軍のハカマの裾をつかんだといいます。慶喜はふりはらって座を去ったといわれています。
この場合の小栗の心事は、明快でした。武士として説くべき事を説いた。容れられなかった以上は、我が事が畢ったわけで、それ以上の事はしません。政権が消滅した以上、仕えるべき主も有りませんから、江戸を去り、上州の権田村 (群馬県倉渕村権田) という彼の知行地にひきこもりました。
のち、関東平野に入った新政府軍は、右の権田村において小栗を捕え、打ち首にします。馬鹿な事をしたものです。新政府は、徳川家とその家臣団に対し、一切これを罪にする、という革命裁判をやっておらず、やらなかったところが新政府のよさですが、小栗に対してだけは例外で、小栗の言い分も聞かず、また切腹の名誉も与えず、ただ殺してしまいました。
小栗が、恐ろしかったのです。小栗の人物は過大に西の方に伝わっていて、これを野に放っておけばどうなるかわからない、という恐怖が、新政府側にあったのでしょう。このあたり、やることの気品という点では、徳川家の遺臣にくらべ、新政府の方がガラが悪かったようです。

小栗の最期は、この話のつけたしです。くり返すようですが、私が話したかったのは、
「これで、土蔵付きの売家になる」
といった小栗の言葉です。小栗には、歴史を大きく見る視野と、次の国家への受け渡しという思想があったところが、この言葉でうかがえます。
小栗は、福沢諭吉の言うところの 「痩我慢」 を貫いて死にました。明治政府は、小栗の功も名も、一切黙殺しました。
「小栗の視野は、徳川家に限られていた」
旨のことを、勝は言っていますが、それは、ちょっと言い過ぎであったでしょう。
明治も年が経ったころに、福沢は小栗や木村摂津守を思い、ご時世に対し、腹に据えかねて、 『痩我慢の説』 を書くのですが、福沢もフェアな人物でありますから、いわば勝を誹謗したこの文章を、発表しようとはしません。使いを勝のもとにやって、勝に見せます。そして、返事を求めます。
勝の返事は立派なものです。
「自分が天下のためにやった事の責任は、自分一人にある。その批判は、他者にある。ですから、あなたの文章を他の人々にお示し (つまり発表して) 下さって結構です」
福沢は、この原稿を筺底 (キョウテイ) に秘めました。その後うわさが広まったために、文章を書いてからざっと十年後の明治三十四年に 「時事新報」 紙上に発表されました。
まあ、こんなこともどうでもいい。
明治国家というのは、江戸二百七十年の無形の精神遺産の上に成立し、財産上の遺産といえば、大貧乏と借金と、それに横須賀ドックだったということを話したかったのです。
さらには、明治国家が、一セントの外貨の手持ちなしに成立した国家であることも、わかって頂きたかったのです。
『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ