〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/22 (木) 徳川国家からの遺産 C 

金の話はつけ足しです。つけ足しついでに、もう一ついたします。
第一回に申しあげた幕府の遣米使節のとき、使節が米艦 「ポータハン」 で行き、別に幕府は自国の軍艦 「咸臨丸」 を派遣した話を致しました。
勝海舟が、咸臨丸の艦長だった、ということは教科書レベルでもって周知のとおりです。しかし、どうも幕府は海舟のような育ちの悪い人間には冷たくて (その冷たさが封建制というものですが) 勝がすねきっていて、太平洋の真ン中から “ボートをおろせ、俺は日本へ帰る” と言い出したのも、無理はないんです、
艦長なら、ふつう大佐で、大佐と言えば、徳川日本風でいえばナントカの守でしょうな。勝の身分は、軍艦操練所教授方頭取だったのです。
その身分は、
「小十人 (コジュウニン)
という、文字からして低いものでした。やっと旗本、というか、それでも旗本というか、ふつう武士というものは、高等官は石で禄を数えますが、小十人はお徒士同様、米何俵という俵で数えます。
小十人は年に百俵。小十人社会の言いぐさに、 “百俵六人泣き暮らし” というのがありました。標準的な家族は六人、その六人がとても食べてゆけない、というものなんです。兵隊の位で言えば、最下級の少尉。咸臨丸の時、勝はいい年をして少尉で艦長室にいあたんです。
それにひきかえ、年下の木村摂津守喜毅 (ヨシタケ) (明治後、隠居して芥舟 (カイシュウ) ) は御浜御殿奉行の子でしたから、いきなり軍艦奉行、従五位下の大名なみでした。いわば少将ともうべき位でした。
指揮は木村がとらねばなりませんが、木村は勝つをたてようとする、勝はふてくされる。権力欲と名誉欲は男の悲惨な病気ですね。といって勝海舟の全体としての偉大さを損なうものではありません。

この話、もう一つお金の話の前置きなんです。
その話にたどり着くまでに、明治国家とかかわりのある大切な話をさせてもらいたい。
旗本は、大名と同様、
「殿様」
と呼ばれていました。封建制度の話として理解していただきたい。
おなじ侍でも、大名の家来の侍なんぞは、旗本からみれば下人同然なんです。その木村が、咸臨丸でアメリカに行くに当って、当時、江戸で多少は知られていた若い洋学者をつれていました。福沢諭吉でした。
福沢は大分県、つまり豊前中津の奥平家十万石の家来で、大名の家来の身分から言うと、木村は雲の上のお殿様でした。福沢はつてを求めて木村に願い出、私的な従者として連れて行ってもらうことになりました。身分としては、荷物持ちの下男です。
「門閥制度は親の仇でござる」
と、福沢は言ったことがありますが、彼は門閥家の木村に対しては何ともいえぬ親しみをもっていました。
木村は決して威張らず、このような身分の福沢、それも自分より五つも年下の福沢を、人の居ない所では、
「先生」
と呼んで、ごく自然に尊敬していました。福沢の学問と識見を認めた最初の発見者の一人にこの木村摂津守がいます。
福沢は生涯、木村を尊敬しつづけ、明治後、木村が新政府から仕官せよといわれても仕えず、貧しいままで隠遁生活を続けているのを見て、どうやら陰で経済的な援助もしていたようです。

福沢は、明治も二十四年ごろになって、
『痩我慢の説』
という、福沢にしては珍しい武士論というべきものを書きました。
「立国は私である。公ではない、さらに私ということでいえば、痩我慢こそ、私の中の私である。この私こそが立国の要素になる」 と説きました。
福沢は言います。
一個の人間も、この世も、あるいは国家でさえ、痩我慢で出来上がっている。国でいえば、オランダやベルギーなどの小国が、ドイツ、フランスの間に挟まって苦労しているが、あれだって大国に合併されれば安楽なのだが、痩我慢を張って、栄誉と文化を保っている。
そういうことでいえば、勝海舟という人は、どうも解せませんというのが、福沢の論です。
幕府瓦解の時、将軍から全権を委ねられ、江戸を明渡し、みずから徳川家を解体し、静岡に移し、わずか七十難万石に縮小して日本を内乱から防ぎました。
福沢はこれに異論を持ちます。徳川幕府は衰えきったとはいえ、あの時なぜ痩我慢を張って戦わなかったのか、勝氏は 「立国の要素たる痩我慢の士風を傷 (ソコナ) 」 った責任を感じねばならない。そういうのです。
私は、この福沢の勝論には与しません。勝の幕府始末は命を張った実務家のもので、福沢は勝の事歴のこの部分を衝く限りにおいては、口舌の徒のにおいがしきりにするのです。
だが、福沢が勝を激しく攻撃したのは、勝が、新政府に仕えて大きな栄爵を得たという事でしょう。なぜ、勝には 「痩我慢」 というものがなかったのか。
さらに、福沢の感情は、咸臨丸時代に淵源するのです。勝が、太平洋横断中、ふてくされて艦長室から出て来ず、温厚な木村摂津守を手古ずらせぬいたことが、木村好きの福沢にとって、勝への憎しみになって生涯消えなかったのです。
勝は、のちその大いなる文明感覚をもって、歴史を旋回させる大演技者になるのですが、あの当時、小さな咸臨丸の中に、しかも木村の私的な従者という、とるに足らぬ小者の中に、将来の福沢諭吉が潜んでいようとは思わなかったのです。その福沢が “なんだ、こいつは” という憎しみを持って、自分を見つめて居ようとは、古めかしく言えば、夢にだに思わなかった。勝にとって、災難ですな。
しかし日本にとって幸福だったのは、別途に太平洋を進んでいる米艦 「ポーハタン」 に小栗がいて、この咸臨丸には、勝と福沢という、希代の文明批評家が乗っていたことです。
小栗は、幕府を大改造して近代国家に仕立て直そうとし、又、勝は在野の、あるいは革命の俊秀たち (例えば西郷隆盛、横井小楠、坂本竜馬など) にアメリカの本質を語って彼らに巨大な知的刺激を与え、一方福沢は、官途には仕えず、三田の山にいたまま、明治政府から無類の賢者として尊敬を受け、明治国家のいわば設計助言者としてありつづけたのです。いわば、二隻の軍艦に、三人の国家設計者が乗っていたことに、我々後世の者は驚かざるを得ません。
建築で言えば、小栗は改造の設計者、勝は建物解体の設計者、福沢は、国家に、文明という普遍性の要素を入れる設計者でありました。

右の三人の設計者の中に、木村摂津守を含めなかったのは、あるいは当を得ていないかも知れません。
彼は明治国家成立の時は身を引き、栄達よりも貧窮を撰び、幕府に殉じて、自ら生ける屍になったからです。福沢流に言えば痩我慢の人になったわけで、その精神において、明治国家に “立国の私” を遺したのです。
勝とは違い、木村はさすがに累代の武門の人らしく、咸臨丸で出てゆくことは、戦国の武士が出陣する事だと心得て、家に相続してきた金目のもの (書画骨董など) を売り払い、それらをすべて金貨 (日本の貨幣やドル金貨) に替え、袋一杯に詰め込んで、船室に置いたのです。出発にあてってお上から出る経費で十分とはせず、世話になる人々に上げるものを含んで、私財を尽くして諸雑費に当てようとしました。戦国の武士は出陣の時、すべて自分の経費でもって馬をととのえたり、家来を雇ったり、食費を賄ったりするのです。そのために、知行というものをとっているのですから、当然といえば当然ですが、しかし木村のように、私財をあげてこれに当てるというのは、生半な精神ではできないことです。福沢は木村摂津守において真の武士を見たのでしょう。
嵐のとき、その金貨の袋が戸棚を破って飛び出し、床一杯に散らばりました。福沢が 『自伝』 のなかでいうところでは、 「何百枚か何千枚」 床の上にばらまかれた。従者である福沢はそれを拾って再び袋に入れなおした、といいます。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ