〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/20 (火) 徳川国家からの遺産 B 

話が変わりますが、幕末、藩ぐるみで反幕活動をして天下を騒がせたのは、長州藩でした。
この藩は、尊皇攘夷をちなえて京都世論を独占していましたが、あまりにやり過ぎたために京都を追い落とされました。
翌年、つまり元治元年、長州人は大挙して京都に押し寄せ、御所を守っている佐幕派諸藩と戦い、敗れて国に帰り、さらには先に述べたように英米仏蘭の四ヶ国の艦隊と下関海峡で戦い、これまた敗れます。まことに百敗の攘夷闘争です。
こういう問題児の長州に対し、幕府はいっそ攻め取ってしまえと勇断し、これを攻めるという、いわゆる征長ノ役を起こすのです。むろん、諸藩を動員してのことです。長州の方も、内部で佐幕派が実権を握り、幕府の要求をのんで恭順を示し、滅亡に至らずに済みました。第一次長州征伐が、これです。
のち、長州は再び内部変化し、内部において革命派のクーデターが成功し、幕藩体制から半ば離脱して反幕の旗印を明らかにしました。
幕府は第二次長州征伐を起こします。このとき、諸大名の多くは幕府の命令に忠実ではなくなったのです。それに、長州の藩境に攻め入った幕軍は、いたるところで負けました。
--- 諸大名はもはや幕府に忠実でない。
ということを長州は知っていたから、強腰になったのです。諸大名の足並みが乱れた理由の一つに、
--- 幕府は大名を取り潰して郡県にしようとしている。
という噂があったからでした。郡県にするには、逆らう大名を攻め潰さねばならない。その戦費はフランスから借りるのだ、いまの長州の運命はあしの他の藩の運命である、という噂ほど、諸藩を白けさせたものはありませんでした。
このいわば “事実” にやや近い噂をそれとなく他に洩らした人に、幕臣勝海舟がいます。
幕臣勝は、小栗がフランスに近づきすぎることを、日本国の明日の為に憂えました。
勝は、幕府の瓦解直後はともかく、幕政を動かすような要路に立ったことがありません。彼は熾った炭火と同じで、上に立つ者が彼を使おうにも、素手で掴めばやけどしてしまう、慌てて離す、という訳で、幕府という官界から、出たり入ったりしていました。
それに、彼は西郷隆盛など薩摩人や、土佐藩の坂本竜馬といった幕臣にとっての危険な人物と付き合いすぎています。
世の中を変えてしまえ、という側に、勝は友人知己や、あるいは門人が多かったのです。幕閣の中枢としては、勝をどこまで信じていいか。
「いっそ、勝を斬ってしまえ」
という幕臣がいて、小栗がそれを知って知らぬふりをした、ということもあり、この両者の色の違いは、幕末ぎりぎりになりますと、濃厚に出て来ます。

以上は、政治的な話です。
こんどは、別の話をしましょう。
当時、世界に航海する船を持つことが、近代国家の最低の条件とされていました。物を輸出するのに、商船を必要とします。商船はその舶籍の国の旗を掲げていて、その国から --- つまり母国から --- 保護されていることを表しています。さらには、遠くへ行く船は法的にはその国の主権の延長であります。その背後にある国家主権には、商船への保護能力の実体として、商船という手形の信用の裏判として海軍を備える事が必要だったのです。
海軍は十九世紀の近代国家の必須の条件でありました。でありますから、勝海舟も、幕臣身分でありながら、神戸の地に、海軍塾を開き、諸藩の士や浪人を塾生として集めて教えていました。ここに入って塾長になったのが、土佐藩脱藩浪人坂本竜馬でした。
--- 勝は、不穏な考えをもつ浪人を集めて塾を開いている。
という疑いが幕府にあったり、いろいろなことで、やがてこの塾は寿命短く閉じることになります。
竜馬は勝の志を継ぎ、長崎で浪人結社亀山社中、次いで薩長土それに越前の四藩の出資により成る一種の株式会社 「海援隊」 を起こし、遠洋海運業を志すと共に、私立海軍の実質を高めようとします。
諸藩も、西洋式風帆船などを購入し、あるいは佐賀藩のように蒸気船を造ったり、薩摩藩のようにそれを数隻備えたりして、海軍や海運を興そうとします。ただし、みな小規模のものです。

小栗は雄大なものを興そうとしました。
そのためには、製鉄所や鉄工所や船台 (ドック) つまり造船所を持たねばなりません。持つからには、世界的なレベルのものを持たねばならない (これは、先にふれたように帝国主義などというものと関係は有りません。小栗は、彼が設計しつつある新国家の規模を、ミミッチイものにしたくなかったのです)
彼は、その地を相模国横須賀村という無名の村に選び、慶応元 (1865) 年三月から、六ヶ月かけて三つの入り江を埋め立てました。
構想は大きいんですが、金なんかないんです。
日本の外資は、生糸とわずかに茶で稼いでいます。産物といえば絹と茶だけ。
それに、開国でもって国際経済社会に入ってから、国内経済にいろいろな矛盾が生じて、物価高、あるいは人心不安といったように、病気でいえば高熱の最中です。その不安を長州人や脱藩浪士たちが煽っています。その煽る方の側に、勝もいる、と江戸幕府の方では見ていました。
その上、長州征伐という大きな出費で、幕府の財政は火の車でした。そういう大変な時期に、金なしで小栗はこの大構想を進め始めた。
むろん、財政に明るい小栗の事ですから、明快な成算は立っています。

げんにこの時期、小栗は勘定奉行 (大蔵大臣) と海軍奉行 (海軍大臣) を兼ねておりましたのは、この一大プロジェクトのためだったのでしょう。
それにしても、計画が大きする。今でいえば、スリランカのような国が、富士製鉄という大工場をいきなり興すというか、貧も底をついたような徳川国家にとって、背負いきれない大荷物ですね。
なにしろ予算は二百二十万ドルというべらぼうなもので、四カ年計画ですから、これをたった四ヵ年で払わなければならない。
ちょっといい忘れましたが、この横須賀ドックとその付属設備 (幕府はどういうわけか、製鉄所といっていました) はフランスの有名なツーロン軍港 (地中海に臨む。十七世紀以来のフランス海軍の代根拠地) の規模に近い (三分の二とか三分の一とかいいますが) ものだったようです。
時のフランス公使ロッシュと話し合った末に生まれた計画です。とにかく、金がかかる。
結局、ロッシュと相談の上、日本の生糸をフランスのみに売る。それを一ヵ年六十万ドルとして4×6=24、四ヵ年で皆済する、という計画を立てました。
ところが、英国はじめ各国が、じゃ日本は生糸を我々に売らないのか、それじゃ我々は何のために日本と通商条約を結んだのだ、という騒ぎになって流れてしまい。あとは小栗が四苦八苦しました。
一時は、フランスから六百万ドルの借款をしようということになりましたが、借款はフランスの方でもうまくゆかない、日本も、外国から大きな借金をするのは拙いということがあったりして、これも流れた。
このあと、小栗は脂汗を流して支払ってゆき、あと五十万ドルというところで、幕府が瓦解した。ドックは、フランスの会社の抵当に入った。
新政府はそれを引き継ぎ、維新早々、大隈重信がかけまわって、横浜の英国系のオリエンタル・バンクという銀行から、英国公使の口利きで、五十五万ドル借りてやっと抵当を取りはずす騒ぎになった。英国系のオリエンタル・バンクのこのときの利子が15パーセントという大変な高利でした。きついものですな。
このサラ金なみの高利は、日本に抵当がなかったことと、新政府が (つまり明治国家が) いつまで続くかという点で信用がなかったことを表しています。


金の話が出たついでに申しますと、明治国家は、貧の極から出発しました。旧幕府が背負った外債はむろん引き継ぎました。あらたに明治国家は借金もしました。それらを、貧乏を質に置いても、げんに明治・大正・昭和の国民は、世界中の貧乏神をこの日本列島に呼び集めて共に暮らしているほどに貧乏をしましたが、外国から借りた金は全て返しました。
「国家の信用」
というのが、大事だったのです。
私は1987年の春はロンドンにいって、そこで、ラテン・アメリカのある国が、先進国から借りた金、これは返せません、ということをわざわざ記者会見して言明した、という事を聞き、明治国家を思って、涙がこぼれる思いでした。律義なものでした。
これは自画自賛しているわけではありません。
第二次大戦後、沢山の新興国家ができ、借金政策で国をやっている処が多く、しかも堂々と返さないといったような国もいくつかあります。
それらとは、時代が違うのだ、ということを言いたかったのです。
十九世紀の半ば過ぎという時代において、古ぼけた文明の中から出て近代国家を造ろうとしたのは、日本だけだったのです。そのことの嶮しさを述べたかったのです。
いったん返すべきものを返さなければ植民地にされてしまうのです。でなくても、国家の信用というものがなくなります。国家というのも商売ですから、信用をなくしてしまえば、取引ができなくなるのです。信用がいかに大事はという事は、江戸期の人たちも、その充実した国内の商品経済社会での経験で、百も知っていたのです。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ