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2007/03/20 (火) 徳川国家からの遺産 A 

さて、幕藩体制とは何か。ここでちょっとそれを考えたい。脇道に入るようですが。
この幕藩国家というのは世界史的に類のない日本独自のものです。西暦1600年の関ヶ原の役によって出来上がった体制で、あくまで歴史的産物です。
幕藩体制における徳川将軍家とは何か。王家とか皇帝家とかいった絶対政権を持つ家ではなく、 “諸大名の中での最も大いなる大名” と既定すべきです。
最大の大名ですから、最大の武力を持っています。それに、他の大名を封ずる権能と、一旦緩急あれば大名を一つの軍事目的に向かって動員し、かりたてる権能とを持っていますが、実質上は、大名達は将軍の家来とは言いがたい (将軍の家来は俗に、 “旗本八万騎” といわれる直参だけです) 最もわかりやすい表現で言えば “徳川家とは大名同盟の盟主である” ということでしょう。
そも盟主が、国家の統治権を持っています。その統治権の法的合法性は、京都の天皇からもらう 「征夷大将軍」 (略称・将軍) という職によって確立しています。
江戸中期の新井白石などは、今風の表現で言いますと、将軍は元首である、京都の天皇は山城国 (いまの京都市の市域) の王にすぎない、という定義を持っていましたが、その後、幕府の官学 (国家が認めた正統の思想) である朱子学が普及してゆくにつれ (皮肉なKとに朱子学は王権の正当性をやかましくいう体系なんです) 将軍家が元首であるという考え方がぐらついてきました。
幕末になると、天皇こそ元首ではないか、という考え方が広まり、幕府も幕臣もこれを否定せず、京都のほうに上代以来の潜在的な統治権があって、江戸の幕府はそれを代行している、と考えるようになりました。
ただし、幕府は自分の統治権の根拠や合法性にひるみや後ろめたさを持ったことがありませんし、京都の天皇の方にも、政権を返せ、などという考え方を持ったこともありません。幕藩体制時代での最後の天皇である孔明天皇は、あくまで幕府を支持し、幕藩体制を是認する考え方を持ちつづけ、誰よりも佐幕家でした。ごく一般的にいっても、それが常識であり、良識であるとされていました。

盟主である徳川家は、
「幕府」
という政府を持っています。この政府は、徳川家という、いわば本来、私的な一軒の家の収入によって運営されていまして、日本中の人間からまんべんなく税金を取って政府が運営されているのではないのです。
「これでは何も出来ない」
と、おそらく小栗は財政通だけに思ったことでありましょう。
政府の基本的収入は、米にして四百万石ほどなんです。
それに、幕府直轄領の商業地から、運上金という名の税金が入ります。江戸、大坂、博多といった都市で、日米条約後は、横浜などの開港場から、関税という新収入が入ります。
が、いずれにしてもたいした収入ではない。なにしろ日本は二百数十の藩 --- つまり地方地方の小政府 --- に分かれていて、百姓の租税はそれらの藩が取ってしまうものですから、中央政府である幕府は、たいした収入を持っているわけではないんです。
その少ない収入で、幕府は日本 --- むろん大名領も含めて --- 全体を防衛する陸軍や海軍を造らねばならず、また志士と称する者が外国人を殺傷する、そういうテロ事件が起こるたびに幕府は賠償金を当該国に払わねばなりません。
世間にはいろんな跳ねっかえりがいるし、条約によって日本に来ている外国人を殺す事によって幕府を苦しめる。それが革命運動だとしている人もいます。
確かに幕府はこの件では、苦しみぬきました。第一、おそろしく金がかかるのです。ときに、幕府の統制力が弱体化し、それに反比例して、大名の中にはいままで将軍に向かって下げていた頭を、少しもたげようとする藩が出て来ます。
たとえば薩摩藩と長州藩。その薩摩藩が引き起こした生麦事件という外国人殺しの責任も幕府が取り、幕府が賠償金を支払わねばなりません。長州人が外国人殺しをする、あるいは長州藩が、攘夷と称して下関海峡において四ヶ国艦隊と私的な戦争をする。その賠償金も、幕府が外国に支払うのです。
こんな気の毒な政府があるでしょうか。幕府は、諸藩から一文の税金も取っていないのに、日本政府としての義務だけがある。
----こんなばかなことをやっているより、いっそ、封建制を止めて郡県制にし、幕府を名実ともに中央政権にして、全国から税金を取ってはどうか。
という考え方が、小栗という財政家の頭の中で湧き上がってきました。不思議はないのです。げんに、小栗はそういう考え方をもちました。

ときに、幕府はフランスと仲がいい。
じつはフランスは、フランス革命の後、革命政権がすっきりと継続していたわけではないことは言うまでもありません。
革命の後、ナポレオンによって思わざる帝政になった。ナポレオンが失脚した後も、ジグザグしています。王政復古もありました。そして共和制の時代もありました。
じつを言うと、日本へペリーがやって来る前年の1852年、フランスでは、ナポレオン一世の甥のナポレオン三世が、人民投票によって皇帝になり、 “第二帝政” を始めたのです。
ナポレオンは国内の人気を維持するために、ショウーのように派手な外交政策や植民地増やしに熱中しましたが、あらたに国を開いた日本と手を握る事で、国内の話題を華やかにしたかったようです。
いっそ日本を奪って、フランスの植民地にしよう、などという気はなかったようです。英国もそのようでした。それは、不可能だからだったのですおう。徳川日本はよく統治されていた上に、徳川家および二百数十の大名が、旧式軍とはいえ、秩序整然と武を擁していたからで、いかに小国といえども、こんな日本を万里遠征の海軍が攻め取れるはずがありません。
しかし当時の日本人の殆どが、外国が日本を攻め取ってしまうという共通の恐怖を持ち、恐怖以上に強烈な反発感情を持っていました。

そのことはともかく、小栗はフランスが、英国を競争相手として、日本をめぐって外交上の花を咲かせたいという、いわば花だけで、さほどに実質的な野心を持たないという底意を、どうやらわかっいぇいたように思えます。
小栗は、かって見たアメリカの政体は、日本にはとても無理だ、と思っていました。それにひきかえ、ナポレオン三世のフランスの政体は、十分参考になると思いました。
フランス人も、
「わが国の皇帝制を参考になさい」
と、言ったはずです。
「そして郡県制をどうぞ」
とも言ったかと思えます。
幕末、対外的な公文書では、徳川将軍家は 「日本国皇帝」 でした。
ここで申しておかねばなりませんが、ここに国が千あれば千通りの政体の歴史があります。そっくりという国は、地上にはありません。歴史は科学のように法則的に変化するというマルクスの歴史観の誤りは、ここにあります。
フランスと日本は、歴史からしてごっそりちがうのです。ですから、ブルボン王家と天皇家を同じに見たり、ナポレオン一世の帝政と日本の武家政権を同じに見たりすることはできません。
しかし目的あって何かを言おうとする時、強いてイーコールをつけてゆけば、徳川将軍家を、フランスのナポレオン三世と同じだとみて、あらためて大名会議の議長になり、そのことによって大名制度を廃止し、郡県制にもってゆけばどうか。
この研究は、小栗を中心に私的に研究されました。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ