〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/19 (月) 徳川国家からの遺産 @ 

ふつう小栗忠順については、
「上野介 (コウズケノスケ)
という官称で記憶されています。上野介、この官称は元禄忠臣蔵の吉良上野介でおなじみですが、江戸中期の上野介も江戸末期の上野介も、ともに非業に死にました。
幕臣としての小栗家はいわゆる三河以来の家柄で、神田駿河台に屋敷があり、家禄は代々二千五百石、まことにお歴々と言う家柄です。旗本で2千石以上というのは、家格としては小さな大名に釣り合い、げんに小栗の夫人も、一万石の大名の息女でした。
これに比べると、同じ直参でも勝海舟の家は、じつに低い。なにぶん三代前、?一 (ロウイチ) 、という盲人が越後から出てきて高利貸しを営み、中ぐらいの旗本の家と小さな御家人の株を買って、その息子や孫を入りこませたのです。
この小栗と勝とが、幕府瓦解の前後、立場を異にして対立することになるのですが、その政争をここで述べようとするわけではありません。
じつは、小栗も勝も、明治国家誕生のための父たち (ファーザーズ) だったということを述べたかったのです。
いわゆる薩長は、かれらファーザーズの基礎工事の上に乗っかっただけともいえそうなのです。
私の話は、
「明治国家」
という一つの物体を、この机の上に置いて語りたいのです。主人は、明治国家です。話の中にたくさんの固有名詞が出てくるだろうと思いますが、そのいちいちの伝記を述べようとするのではないのです。
しかし、小栗ばかりは、彼自身について語らねばならない。というより、彼が、なぜ明治国家のファーザーの一人であるのかを話さねばならない。

さて、小栗が、万延元 (1860) 年の遣米使節のナンバー・スリーであったことは、すでにふれました。
正使が新見、副使が村垣、この二人は凡庸な人で、新見が恰幅が立派なために選ばれ、村垣は、陳腐な表現力ながら多少の文才があることで選ばれました。
人選者である大老井伊直弼は、この二人がお飾りであること以外何の期待もしていなかったでしょう。期待する必要もない、ワシントンではただ批准だけせよ、余計な事はするな、井伊大老はそう思っていたはずです。しかし一人ぐらいは、目の利く人間を入れておかねばならない。いわば井伊は、自分の目玉代わりになる人物として、三十三才の小栗を入れたのです。 役目は目付けです。
目付けというのは、日本古来の習慣から出た役職です。たとえば、鎌倉の昔、源頼朝が平家追悼の軍を編制するについて、弟の義経を大将にします。目付には、梶原景時を選びます。義経は飾りですが、真の頼朝野代理人は梶原である。そういう組織的習慣が日本にあるのです。
目付については、幕末あたりでも、英国公使館の通訳官が、これを 「スパイ」 と訳し、多くの欧米人がそう信じました。しかし、そうではないことは、以上述べたとおりです。
小栗は、無口な実行家で、文章も殆ど残しませんでした。遣米使節の人々は多くの記録、随想の類を残していますが、小栗はそういう点でも沈黙しています。不気味なほどというか、いっそ沈黙が彼の人格表現というか。
ただ小栗は、一枚の写真を残しています。沈黙が彼の好みだったとすれば、これは、彼にとって不覚じゃないでしょうか。
遣米使節として、米軍艦 「ポーハタン」 に乗って太平洋を渡っている時、アメリカ側の接待係の海軍大尉ジェームズ・D・ジョンストンが、戯れに撮った写真で、小栗の死から六十五年後の昭和八年、アメリカの研究者から日本に送られて来て、私どもは小栗とはこういう顔・姿の人だったかを知ることが出来るようになったのです。
ジョンストン大尉の日記は、私どもと同じ感想を述べています。
小栗が際立って智力がすぐれ、容貌は聡明さで輝いていた、という。なるほど、写真を見ると、ひたいは広く、いわゆる才槌頭で、面長の殿様顔ながら、両眼が異様に大きいですね。全体の姿勢に気取りがなく、ひょろりと立ち上がって竿の先のトンボでも見ているような表情で、気張ったところがなく、およそ自分を良く見せようとするところがうかがえません。いわば、平然たる自然体を感じさせます。ただ、小柄ですね。当時としては、当然ですけど。

小栗の生涯は、わずか四十一ねんでした。張りつめた生涯でした。
門地が高かったため、立身を求める必要もなく、私心もありません。幕府は安心して彼に充足を歴任させました。彼の眼中はただ徳川家あるのみでした。
徳川家が極度に衰弱していることを百も知った上で、歴史の中でどのような絵を描くかということだけが、彼の生涯の課題でした。
「俺がほんとに得意なのは、経済だよ」
と、晩年に語ったのは、若いころ小栗の政敵だった勝海舟でした。たしかにそうで、勝の物の見方は、大きくは日本の現実から小さくは個々の生活、友人の暮らし、世界の状態、あらゆるものを経済の目から勝は見ます。その上で、別な要素を乗せます。例えば人心。勝は、人心を見る名人でもありました。ともかくも物や人や世の中が動くのは底の底に経済があるということを、勝は徹底的に知っていて、巨細となく目配りを利かせていた人でした。
ところが、そっくりといっていいほど、小栗のお得意も経済というより財政でした。
ただ、勝の場合、世の現象を、その天衣無縫ともいうべき表現力で腑分けしておしゃべりしてみせるのに対し、小栗はむっつりと幕府の大金庫の前に座り込んで、金庫の中身と相談しつつ、なすべきことをやっていくという型でした。
-----新国家はどうあるべきか。
古ぼけて世界の大勢に適わなくなった旧式の徳川封建国家の奥の奥にいながら、そんなことを考えつづけていました。
むろん、小栗構想の新国家は、あくまでも徳川家といういうものをコンパスのシンにして、円を描こうとするものでした。
小栗は渾身の憂国家でしたが、しかし人と語り合って憂国の情を弁じあうというところはありません。
真の憂国というのは、大言壮語したり、酔っぱらって涙をこぼすというものではありません。
この時代、そういう憂国家は犬の数ほど沢山いて、山でも野でも町でも、鼓膜が破れるほど吼え続けていました。
小栗の憂国はそういうものではなく、日常の業務の中に新しい電流を通すというものでした。

げんに、彼はそれをやれる位置にいたのです。
アメリカから帰った後、数年して小栗は、幕府の財務長官である勘定奉行に就いて金庫の中身を知り、ついで、今度はお金を使う方の陸軍奉行や軍艦奉行になり、さらには、これら幕府の軍制をフランス式に変えるべく設計し、みごとに実施に移しました。
難事業で、矛盾に満ちていました。武士制度という日本の伝統的なものを一挙に解体する事は幕藩否定、つまり自己否定になりますからそいつに手を触れず、それを残したまま、直参の子弟を洋式陸軍の士官にし、庶民から兵卒を志願でもって募集するという、いわば新旧二重構造の軍制でした。
特に海軍を大いに充実させようとしました。ヨーロッパの帝国主義に対しては、ヨーロッパ型の国を造る以外に、独立自尊の方法がなかったのです。いま考えても、それ以外に方法はみつかりません。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ