〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/15 (木) “青写真” なしの新国家 E 

○ともかくも、日本の幕末における、
「攘夷」
こういう強烈な酒でもってやらねば、国が細胞まで新品に生まれ変わる、というようなことが出来なかったのです。
攘夷というのは、日本にやって来た西洋人を殺す事です。
その西洋人が怒って大挙攻めて来たら、こっちは刀と槍とで戦う。勝とうが負けようが、国土を血ぬらして戦う。勝敗は別。いわば宗教的なもので、というより宗教そのものでした。
人々は酩酊しなければならないのです。酩酊しない宗教というものはありえません。
幕末、そういう意味での宗教意識に、二通りありました。
攘夷をして、何を守るのか、ということについての意識です。大多数の革命的教養人は、
「国是である鎖国を守るべし」
と叫びました。おおかたの長州人は、初期においてはそれでもって奔りまわっていましたし、その意識が国を覆っていました。
実を言うと、江戸時代は教育の時代だったとはいえ、幕府の学校もどの藩の学校も、日本史という教科がなかったのです。
歴史といえば中国の古代史を学んでいました。 『春秋左氏伝』 『史記』 『十八史略』 『資治通鑑』 ・・・そういった本です。
いまから思っても当時の人々は、中国古代史に詳しかったですね。大抵の事例、人物評などは、中国の史実や人物伝をあてはめて、比喩としてつかいます。その比喩が通じなければ、教養上の公民権を得ません。もっとも、独立国としてあまり自慢になることじゃあありませんけど。
むろん日本史の編纂は、水戸徳川家という、特別なイデオリギッシュな家でもって、大がかりに編纂されていました。1657年に始まって、幕末においてもう二百年以上も続いているのです。その継続の情熱に後世の者として尊敬の他はありませんが、なにしろ研究所的仕事でありますから、一般にその成果が公開されてゆくというものではありません。それに、史料の収集や史稿の校訂、史実の考証にはすぐれています。しかし惜しいことに、名文を明らかにするという朱子学的イテオロギーで貫かれているものですから、後世大いに役に立つというものとは言い難いのです。
もう一つ、在野の人が編んだ日本史の通史がありました。在野の史書ですから “外史” といいます。江戸末期の頼山陽の 『日本外史』 です。浩瀚なものではありませんので、手軽に、広く読まれました。幕末のベストセラーでした。
言っておかねばなりませんが、日本における日本史の古い史書は、たいていの国より多いかと思います。
平安朝のころに 『大鏡』 があり、十四世紀には 『増鏡』 があります。物語性が強い 『平家物語』 や 『太平記』 があり、いちいちあげるのは大変です。
戦国から江戸時代にかけて、大名の家の興亡記や、その他様々な記録があり、日本史の研究者は、とくに中世末期からの記録の多さに困っているほどです。
しかし、言語的造形性の高い通史としては 『日本外史』 だけです。
『日本外史』 も 『大日本史』 と同様、朱子学的名分論で貫かれていますので、幕末の状況で言えば、幕府否定になります。天皇家に政権を返す事こそ大義名分になる。そのような読まれ方として、大いに幕末的イデオロギーの燃焼力を高めました。
しかし、---- 話が戻るのですが ---- 鎖国というものは、日本の古来の国是であったかのように、志士たちは思ったのです。
というのは、 『日本外史』 は幕府を開いた徳川家康までが書かれていて、それで終っているのです。
徳川将軍の三代目の家光の代にカトリック (キリシタン) の侵略性を嫌って鎖国をした、ということは書かれていないのです。
攘夷論者はすなわち鎖国継続論者です。同時に、多くの場合、討幕論者です。彼らは幕末のぎりぎりに、
----鎖国は、日本古来のものでなく、徳川幕府がその初期にとった国是に過ぎないものらしい。
という、いまなら、中学生の隅々まで知っているような簡単な事実に気づきます。
地球は昔から太陽のまわりを動いているのですが、それを発見した十六世紀の天文学者コペルニクスの説ほどの、これは驚きでした。
それを知らずに、幕府に対して、国を鎖せとざせと無理矢理に要求し続けていた攘夷的革命論者は足もとをすくわれたのです。
革命期には、無知や妄信の方が、エネルギーになるという一事実です。

これと、討幕もしくは、幕府否定論者の何パーデントかの流れ、又は集団をなしていたグループに国学派がいます。
国学というのは江戸中期から起こった新しい学問です。
漢学とか洋学とかに対して、国学と呼ばれます。
古い時代の日本の国史を調べる。 『源氏物語』 など日本文による古典を研究する。また日本のシキタリや服制についての考証 (有職故実) をやる。
この学問は、賀茂真淵や僧契沖、本居宣長といった容易ならざる天才達を出しています。
それらが、多少宗教性の強い平田篤胤にいたって、神道主義が濃厚になり、復古主義、国粋主義が強くなります。
さらに、江戸末期になりますと、全国津々浦々の富農・富商階級つまりブルジョアジーの教養として広がってゆきます。国学をやらないのは歴としたブルジョアジーではないというふうにまでなります。幕末、彼らの一部もまた、国学の立場から討幕運動に参加しました。
侍階級はあまり国学をやりませんな。長州の代表格の木戸孝允も、薩摩の西郷・大久保も、国学とは無縁です。彼らは、国学者達を、なんだか神主さんのような人達だとぐらいにしか思っていなかったでしょう。

しかし国学もまた討幕エネルギーでありましたので、新政府はこれを鄭重に扱わねばなりません。
そこで、新政府は、
「神祇官」
というものを設けたのです。神祇官は奈良朝時代からあって、祭祀をしたり、卜占 (占い) をしたり、鎮魂 (タマシズミ) をしたりする役所でありますので、これは維新早々の復古現象の中でも最たるものです。
この神祇官が、やることがないので、明治国家初期の最大の失政であるお寺こわしをやります。仏教も外来のもので、日本古来のものじゃない、という珍妙な文化大革命 (新中国の政治史用語です) です。廃仏稀釈というもので、まことにバカな話です。革命派酔っぱらいですから、平時には考えられない大愚行がつきまとうのです。
この神祇官は、はじめは太政官の一部局でしたが、ほどなく、太政官より上に置かれて、太政官の拘束を受けない、超然たる超権力になります。
しかし、さすがにそういうことの愚かさに気づいて、神祇官という役所は、わずか三年あまりで、廃止になり、消滅します。

さてさて、余談から余談へ、長かったですね。しかしこれらは、明治元年から四年までの明治国家の重要現象ですから、決して無駄話ではありません。
要するに、薩長という明治維新勢力は、革命政権について何のプランも持っていなかったということなのです。
プランを持っていなかったということで、西郷と津田出のことを、私は持ち出したのです。それを言いたかったために、津田出に登場してもらったのです。
西郷はプランがないために弱りきっていたところでしたから、津田の許から帰ってくると、珍しく興奮していました。盟友の大久保にもそのことを語ります。ついに、西郷は、
「我々が津田先生を頭として仰ぎ、その下につこう」
と、言います。
西郷のすばらしい一面だと思います。
同時に、明治維新勢力が、どんな新国家をつくるか、という青写真も持っていなかったということをも表しています。持っていなかったのが当たり前ですね。
全く文化の質の違う日本が、にわかに欧米と出くわして、それから侵されることなく、それらと同じ骨格と筋肉体系を持った国をつくろうというのですから、これは、青写真がある方がおかしいのです。
日本のような国が他にあって、それが先例になっていたとしたら、別ですがね。

さっぱりわからないため、いっそ外国を見に行こうじゃないか、ということで、廃藩置県が終って早々の明治四年秋、岩倉具視を団長 (正しくは全権大使) とする五十人ほどの革命政権の顕官が、大挙欧米見学に発ちます。
「国家見学」
というべきものでした。世界史のどこに、新国家が出来て早々、革命の英雄豪傑たちが地球のあちこちを見回って、どのように国をつくるべきかをうろついてまわった国があったでしょうか。
これは、明治初期国家の、好もしい子供っぽさでした。この中に長州の総帥木戸孝允もいます。薩摩の大久保利通、また伊藤博文もいます。
西郷は、留守番でした。
彼が津田出に会ったのは、岩倉使節団が出発する前か後か、よくわかりません。大久保が東京に居るころですから、やはり出発する前でしょうか。
あれだけ西郷が興奮したのに、津田を首領にすることは、花火のように消えてしまうのです。
理由は、様々考えられます。よく言われていることは、津田が少し公金についてルーズということでした。西郷は、何よりも嫌いなのは、汚職というものでした。
津田が汚職をする人だということではありません。おそらくそのようにお話を作った薩長人がいたのでしょう。自分たちが折角つくった新政府を、そっくり紀州出身の無名人にさしあげてしまうというのは、薩長の二流人士にとっては耐え難い事だと思って中傷したのかも知れません。
これらの余談はどうでもいいことです。
今回は明治国家がプランなしだったということを知ってもらえば、私のこの回の主題は完結します。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ