〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/11 (日) “青写真” なしの新国家 C 

○さて紀州藩の事です。
津田出を追い出してから、あっという間に世の中が変わってしまい、紀州藩の保守派は大慌てしました。が、まだ藩は続いています。
そこで藩主茂承は、もう一度津田出を呼び出し、こんどは不退転の決意で藩政改革を命じます。保守派もおとなしくなりました。なにしろ肝心の本家の徳川家が敗北して、紀州藩もどうなるかわからない。そういう呆然とした全藩のショック状態の中で、津田出の藩政改革が断行されるのです。
まず、藩士の給与を思い切って縮める事です。
藩主自らが自分の取り分を小さくしたために、門閥家老以下もおとなしくそれに従わざるを得ませんでした。
藩の官僚制度も、すっかり変えます。才能と能力次第で登用され、門地はモノをいわなくなりました。藩政の最高機関として 「政事府」 を置きます。近代的ないい名称ですね。その下部に、公用、軍務、会計、刑法の四局を置きます。局は、オランダ語にもあるBureau (英語) という言葉を意識したものでしょう。郡ごとに、民生局を置きました。
さらに学校の制度を整えます。
軍隊は、陸軍と海軍とに分け、病院も置きます。傷病になった兵士の面倒を見る廃兵院 (アンヴァリッド) も置きます。陸軍は、軍務局を頂点とし、騎兵・砲兵・歩兵工兵を置きます。兵士は武士・農民を問わず、二十歳に達した青年から選抜徴兵をし、給料を支給するようにしました。
この制度は明治二年二月に出発しますから、明治政府が徴兵制を布いて日本中が反対の気分 (明治十年の西南戦争の遠因でもあります) で大騒ぎするよりも、三年早かったのです。
驚くべきことに、明治政府を先取りした小さな明治政府が、明治政府とは何のかかわりもなく、大田舎の和歌山県に出来たのです。
また通商省といった 「開物局」 を置きます。この開物局は、洋式技術や洋式機械による皮革改革をおこしたり、靴製造を行ったり、木綿製造を行ったりするものです。
つい先ほどまで御三家の一つの紀州徳川家だったこの藩が、いきなり輝かしい新時代の体制を持ち、小さな新文明の国家を出発させたのです。
「津田出」
というのは、それまで世間では全く無名でした。
----面白いから見学しようじゃないか。
と、少し後の話なんですが、アメリカ、イギリス、ドイツといった各国の外交官が和歌山県にやって来て見学します。東京へ移った新政府でも、これが噂になりました。

今回は、余談が多いのですが、津田出は、洋式陸軍を作った以上、やはりヨーロッパの軍人を教官に傭いたかったのです。
この点、旧幕府は大したものでした。むかし長崎に海軍伝習所を作った時、オランダ政府に共感の派遣を請い、それによってカッテンディーク中佐のように、後にオランダの海軍大臣になるような選り抜きの俊秀を教官としたのです。
また旧幕府が洋式陸軍をつくったとき、フランス皇帝 (ナポレオン三世) の特別の計らいで、優れた将校を呼びました。
が、いかんせん、和歌山は日本政府ではないし、田舎でもあります。誰をどのようにして雇っていいのかわからずに困っているうちに、大坂の居留地である川口のドイツ系貿易商レーマン・ハルトマン商会の倉庫番が、なんでも軍人上がりだということで、呼んできたのです。
カール・カッペン (1833〜1907) という人でした。
じつは、ドイツも、明治維新より少し遅れるものの、プロセイン主導によるドイツ統一が進行中でした。カッペンという男はプロセイン人ではなく、小さな公国の出身でした。ハノーファーという人口五十万ほどの公国で、いわば和歌山県のような国でした。日本の慶応二 (1866) 年に、プロセインが、この小さな公国を合併しました。そこを故郷としていたカール・カッペンはおもしろくなくて、軍籍を脱し、はるかな日本の大坂まで来て、倉庫番をしていたのです。将校ではありません。軍隊生活十六年という老練の特務軍曹です。つまり下士官です。
少しわかりやすく言いますと、紀州藩---まだ和歌山県になっていません---は、カール・カッペンがつとめるレーマン・ハルトマン商会から、ツンナール銃を紀州陸軍用として購入していたのです。
この銃は、アメリカ人のスナイダー (1820〜66) が発明した装填式ライフルのスナイドル銃と同じ型式で、幕末のぎりぎり、各藩とも欲しがった銃でした。
「教官としてヨーロッパの軍人を見つけたいんだが」
と、紀州の買い付け係りの役人は、商人のハルトマンに相談したのでしょう。
「うちの倉庫に居るよ」
あいつは十七の時に軍隊に入って十六年もその飯を食っていた人だから何でも知っているよ、といったふうば具合だったのでしょう。
老いたる下士官カール・カッペンは、このようにして紀州藩の教官になりました。大変高い給料で、ほんの二年間、つまり紀州藩が和歌山県になってしまう (廃藩置県。1871) までの間のことですが、粉骨砕身、紀州藩陸軍の為に働きました。彼は故郷に帰って、軍人募集をしました。そこで、五人の軍事教官 (軍医一人を含む) を集めました。
彼はなお故郷に残って兵器などを集め、五人の教官を先発させました。かれら五人は明治四 (1871) 年十二月に横浜港に上陸します。残念ながら五ヶ月前の七月に 「廃藩置県」 の大号令が出て、藩は廃止、紀州藩は消滅してしまいました。
紀州藩の後を継いだ和歌山県はカッペンとこの五人の始末に困り、なんと計三万数千ドルという気の遠くなるような破約金を払って、ドイツに帰ってもらいました。カッペンはこの大金のおかげで遊び暮らしたといいます。おとぎ話のような話です。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ