〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/10 (土) “青写真” なしの新国家 B 

○私の祖父のような、播州の田舎の土民でさえ、時代の危機意識を共有しておりました。まして、紀州藩主と津田出においてなおさらにことです。藩主茂承は、第二次長州征伐から戻ってから、
「又太郎 (津田出の通称です) 長州に百姓に負けたんだよ。百姓というのは奇兵隊の事だ」
というやりとりがあったと私は想像します。ついでながら、故貝塚茂樹博士や湯川秀樹博士のお祖父さんは紀州藩士でした。槍の名人といわれて、全軍退却の時、シンガリをつとめたといわれていまして、貝塚さんや湯川さんは、しばしばこの人の話をしました。
さて、藩主茂承の言葉に対し、津田は、
「百姓に負けたのは当然の事でしょう。永年、封建制のおかげで家禄をついできた武士に気概を求める事は困難です。百姓に名誉と技術を与え、彼らを国を守る基盤にする以外ありません」
と言ったはずです。
ここにややいびつとはいえ、平等の意識の芽生えを見ることが出来ます。もっとも平等の意識と原理がなければ、津田が展開したような藩政改革論は一行といえども成立しませんが、時代というものは面白いですね。
明治十年前後にスタートする自由民権運動のような形ではありませんが、人民という大地そのものがここで大きくその無言の存在を見せ始めます。沸騰する国際環境の中で、農民は権力の虜囚、もしくは納税機械であるという存在から、別なものになろうとしています。しかし、多少の民権を得るまでに、まだまだ年月がかかります。

津田出が藩政の実権の一部を握り (国政改革制度取調総裁) かつ右の改革が家中に知れ渡った得、当然ながら保守層から反発が出ました。
この改革案が提出された翌年 (慶応三年十月) 藩主は保守派から迫られて津田を辞めさせ、かつ自宅に閉じ込め (禁錮) という刑に処さざるをえなくなり、しかもこの処罰の翌日、津田の片腕だった改革派の人物が、登城の途上、白昼襲撃を受けて殺されます。
過激な改革案は潰え、津田は、田舎へひきこもりました。それが、慶応三年の暮れのことなのですけれども、その後ほんの数週間のあいだに、時代が、滝壷の水のように旋回するのです。
和歌山城下でこそのどかな年の暮れでありましたが、京都と大坂の間では、戦争が起ころうとしていたのです。京都には薩長軍が陣取り、大坂には徳川軍が大軍を集めていました。その徳川軍が大挙京へ攻め上るという形で北上し、京都の南の鳥羽・伏見で、北上軍を迎えようとする薩長軍と交戦する事で始まります。
薩長軍は、あらたに加わった土佐藩の部隊を入れても数千でした。ところが、人数の上では数万という圧倒的に多数だった徳川軍が大敗するのです。
徳川軍の先鋒だった新撰組も、その得意とする剣術が、薩長の新式銃や大砲の前には役に立たず、また大坂で兵卒をかき集めた幕府ご自慢の洋式歩兵部隊も、まだ未訓練のために、鳥羽堤の上から転がり落ちるようにして敗退しました。
先鋒がくずれたために後続部隊がしりごみし、その間、伊勢の藤堂藩の砲兵隊が山崎あたりで寝返ってしまい、寝返りの報が徳川軍全体に過大に伝わって士気を失わせたのです。

大坂城に居た最後の将軍である徳川慶喜は、敗報が伝わるや、夜陰にまぎれて城をぬけだしました。その親衛部隊さえ慶喜の脱出を気づかなかったといわれています。
徳川軍が、十分の戦力を持つにもかかわらず、大坂城に居た慶喜はほとんで数人の者を連れて逃げ出したのです。
慶喜は聡明な人で、第一級の人物でしたが、歴史意識が旺盛すぎました。彼は、水戸徳川家の出で、いわゆる水戸学の卸し問屋のような家に生まれたのです。水戸学は、日本的な朱子学です。朱子学の歴史観の骨髄をなすものは、王を尊び---尊王---です異民族をいやしむ---攘夷です---ということなのです。京都の薩長は、それまで現実の聖賢や政治とは無関係だった天子を擁しました。慶喜は、もしこれに抗すれば、後世、水戸史観によって自分は逆賊として位置付けられてしまう、と思い、そういう頭の旋回から、自ら転倒したものと私は思っています。
むろん、慶喜自身は、自分の内面についてそんな事は言わず、この間,遁走の理由は沈黙したきりでした。
彼は大坂湾に碇泊していた自分の軍艦に乗り、江戸へ帰るべく錨を上げさせました。大坂湾におけるその夜、慶喜が連れて出た老中の板倉伊賀守勝静 (1823〜89) が、“なぜお逃げになるのです。もっと戦ったら、必ず勝ちますのに” と言いますと、慶喜は、
「わが方に、西郷・大久保のごとき者がいるか」
と、言いました。板倉は、だまってうなだれたといいます。
最後の将軍だった慶喜が、逃げる口実として薩長の 「西郷・大久保」 という名を出したのは、西郷と大久保にとってこれほどの名誉はなかったでしょう。
が、賢い慶喜は、常に正直に述懐を述べるとは限りません。慶喜は、辞世の奔流に対して自ら身を引いてしまったのです。後に彼が江戸に帰ってから行われる江戸の無血開城ということも、慶喜としては、一筋の主題だったのです。慶喜は、歌舞伎のトンボがえりのように、自ら宙を跳ねてひっくり返り、負けの姿勢をとったのです。

さて、紀州の田舎に引きこもった津田出のことです。
彼の村---那賀郡小倉---は紀ノ川中流の左岸、つまり南斜面にあって、陽あたりがよくて、昔から人気もいい土地とされていました。庄屋さん以下村役人は村の衆の面倒をよく見て、夫婦仲の良し悪しまでも心配している。私もこの南斜面の二、三の村を歩いたことがありますが、人の気持ちの温かそうなところですね。津田家の本家を頼って、身を隠していたと言われています。この本家の遠祖は、津田監物です。正しくは津田小監物算長。戦国時代の史料上の名士としておそらくご記憶があろうと思います。天文年間、鉄砲伝来の時にかかわりのあった紀州の豪族で、津田出の津田家はその傍流といわれています。
ともかくも、紀州の庄屋というのは、実に百姓の面倒をよく見て、ほとんど一体感を感じるほどです。津田出もまたそういう在方の気風を受けていたのでしょう。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ